メンツィカン研修医の僕のところに、失礼ながら見るからに生活が苦しそうな患者が訪れた。やつれた服装をしている。僕は彼に「薬代はいりませんからね。お大事にしてください」と告げると「ニャムタク(貧しい)」と処方箋の右上にサインして渡した。すると彼は白い包み紙をおずおずと僕に差し出した。中を開けると白っぽい土と一枚の葉っぱが入っている。「お金を払えなくて申し訳ない。診察のお礼にこれを受け取ってください。聖地ブッダガヤ(第147話)の土と大塔のそばの菩提樹(チャンチュブシン)の葉です」と何度もお辞儀をしながら説明してくれた。チベット人ほどに信仰心が強くない僕とはいえ、チベットならではの恩返しに感銘を受けたものだった。
チベット医は診察料や薬代を受け取らないと語られることがあり、それはまんざら誇張ではない。たとえばメンツィカンでは診察代はチベット人、外国人を問わず無料。60歳以上の老人と亡命して1年以内のチベット人は薬代も無料。僧侶と学生は薬代が半額である。一般の患者からは薬代の原価のみをいただいており、だいたい一日分で9ルピー(20円)である(注1)。上記の保険割引に該当しなくても「ニャムタク(貧しい)」と担当医が判断したら薬代を無料にできるのだが、お人好しな日本人アムチ(つまり僕)はあまりにもニャムタク該当者を乱発したために病院長から注意をうけて事実上、その権利を剥奪されてしまった。ラダックなど村々の伝統医はいまでもお金は基本的に受けとらないようだ(注2)。その代わりにと、患者はバターや農作物を進呈したり、元気になったら農作業などを手伝ったりする習慣がいまも息づいている。一般的に診察のお礼の定番は生活必需品のバターと牛乳である。ちなみに四部医典には「治療のお礼を直接求めてはならない(論説部第31章)」と明記されている。
ヒマラヤの村々の世襲アムチ(第69話)はもともと裕福な家が務めており、したがってお金に比較的執着しなくてもいい。また、農作業の傍ら医療を行うことが多く、副業だからこそ利益にこだわらなくて済むという一面もある(第20話)。一方、医師専門家集団であるメンツィカンのアムチの収入はチベット亡命政府の公務員の給料とほぼ同じ額を得ており、けっして高給ではない。そしてその財源の多くはチベット人や海外からの寄付に依っているので、やはり、医療の現場に資本主義経済が介入することはない(注3)。
ちなみに、僕も日本において、診察やチベット医学講義のお礼にと、お金の代わりにいろんなお礼をいただいてきた。たとえば姫路の皮職人の方から牛皮一頭分をいただいたことがあった。生前の牛の形と大きさが偲ばれるほどリアルな皮だ。その皮はいま、オリジナルの鞄に生まれ変わってたいへん重宝している。たとえばマッサージ師の人からはマッサージ。パン職人からはパンを。学生さんは引っ越しを手伝ってくれた。もちろん現金をいただいて嬉しいのは当然として、こうしてたオリジナルのお礼をいただくといっそう心に残るというもの。
最近もらって嬉しいお礼は卒業論文である。「もしよかったら、大学時代の卒業論文、もしくは修士論文について教えてもらえませんか」と(ややしつこく)催促すると、遠い記憶をたぐりよせるかのように解説してくれる。多くの人は「いや、たいした研究じゃないんですよ」と謙遜するが、それにしては4年間以上も費やした成果なのだから脳の片隅に終い込んではもったいない。チベットや薬と関連する分野ならもちろん、工学や経済、日本文学などの研究でもかえって興味が湧いてくる。知恵と知恵の交換経済は予算がかからず手荷物にならない。
ちょっと話は逸れるが、先日、念願かなって初めて甲子園球場を訪れた。高校野球の準々決勝の日で、スタンドには満員のお客さんであふれていた。やっとテレビの向こう側の世界に入り込めた興奮。僕は高校野球、正確にいうと富山県代表チームの熱狂的なファンである。前日、富山商業が逆転サヨナラホームランで負けたのを知ったとき、奈良の高校で薬草ワークショップ中だったにも関わらず卒倒しそうになったのは本当の話である。だから、きっと僕にはブッダガヤの土よりも、甲子園の土のほうがありがたいかもしれないな。
注1
外国人には適用されません。また、海外へ薬を郵送する場合は特別な料金設定になります。
注2
原理原則ではないので、最近は例外も多いと思われます。
注3
篤志家にはチベット薬のおかげで自分自身、もしくは家族の病が治った方が多い(第92話)。
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