「牛に引かれて善光寺参り(注1)」のごとく、2011年12月、妻の希望でインドの仏跡巡りに出かけることになった。僕は信仰心がないわけではなかったのだが(第125話)、「眼に見える形が大事なのではなく、心が大切なのだ」という言い訳じみた屁理屈をチベット社会で押し通し続けた結果、いままで聖地巡礼に出かけることはなかった。ちなみにメンツィカン同級生の多くは冬休みになると家族と一緒にツォ・ペマ(密教の開祖パドマサンババが瞑想を行われた場所)や、お釈迦様が悟りを開いたブッダガヤなどの聖地へ巡礼に出かける。そして、普段、寮生活や僧院生活、または行商などで離ればなれになっている家族が巡礼を機に一堂に会し、絆を深めあうのである。
デリーから寝台列車に乗ること8時間、まずはサルナートを訪れた。ここはお釈迦様が最初に説法を行われた土地である。アショカ大王が建立された仏塔や僧房の跡からは、たしかにインドは仏教発祥の地であることを教えてくれる。サルナートを後にすると次にブッダガヤに向かった。チベット人にとって最高の聖地であることから、彼らはブッダガヤではなくチベット語で「ドジェデン」と呼んで崇拝している。この地名はこんな神話に由来している。
むかしむかし、須弥山の間隙にショトゥン行者さんがお住まいでした。ショトゥンさんは「真実の力」を見つけられた方。そしてショトゥン行者が亡くなられたとき、遺骨は金剛のように硬かったそうです。その遺骨を天衆界と阿修羅が持ち去り、足の骨は帝釈天の御手の法具、肋骨は自在天の短い槍、肩甲骨は遍入天の手裏剣に生まれ変わりました。このとき骨の粉が人間界の中心に舞い落ちて大地が白く敷きつめられたことから、この地がドジェ(金剛)デン(敷物)と呼ばれるようになったのです。(注2)
僕たちはドジェデン在住のマノジさん(注3)が経営するゲストハウスにチェックインすると、さっそく、大塔へ朝夕に巡礼に出かけることにした。寺院には、すでにチベット人、ブータン人をはじめとして世界各国の仏教徒が集まり、大塔を中心に右遶(うにょう)していた(注4)。タイやミャンマー、ビルマなど上座部仏教の巡礼者も大勢みうけられる。ある人はマニ車を廻しながら、多くの人々は口々に真言を唱えながら一心不乱に歩く。早朝から夜中までこの流れは絶えることがない。こうして大勢の人が同じ方向に渦のように回るとは、考えてみれば不思議な光景である。そのとき、チベット医学にまつわるこんな神話が脳裏をよぎった。
むかしむかしのことでした。大海の真ん中に秘められたという「アムリタ(不死の水)が詰まった壷」を求めて天衆人と阿修羅の方々が探しまわっていました。そして阿修羅の一員であるダチェンが四大陸を巡回しているときのこと。春の月の十五夜の晩、須弥山の南側の海が月光で照らされたところ、大海の中央に水晶のように輝く壷を発見し、「見えたぞー」と叫びました。天衆人と阿修羅は相談し、須弥山に竜神を巻きつけて回転させ大海に渦を作りました。渦の力で大海の水を干上がらせ壺を得ようとしたのです。ところが、渦の中から現れたのは、なんと……後略
四部医典絵解き図より
大塔は須弥山の象徴でもあることを考えると、我々巡礼者たちは、まるで神話のごとく、須弥山を廻して渦を作っているようにも見えてくる。もしかして我々は天衆と阿修羅界の眼に見えない力によって大塔の周りを回らされているのかもしれない。神話ではこのあと鬼神は現れるは、手裏剣は飛び交うは、壺をめぐる激しい奪い合いが繰り広げられたあとにようやくアムリタの壺を手に入れるのだが(注5)、果たして我々はあと何周回ったらアムリタを手にすることができるというのだろうか。
そんな空想に思いをめぐらせつつ黙々と右遶していると多くのメンツィカンの同級生たちと再会した。すると「宗教心のない、あのオガワが聖地巡礼?」といぶかしがられつつも、積もる話に花が咲いたのである。また、この旅行には妻とともに僕の兄も同行していた。男兄弟は普段、用事がなければあまり話をしないもの。こうして兄とゆっくり話をするのはもしかしたら20年ぶりかもしれないな。信仰心の確かな芽生えと、友人との再会。家族との親睦。なるほど、聖地巡礼のおかげで、アムリタの貴重な一滴を得ることができたのかもしれない。
(注1)
昔、信濃の国・小諸に住んでいた不信人で欲深い老婆が、さらしていた布を隣の家の牛が角に引っかけて走り出したのを見て、その牛を追っていくうちに善光寺にたどり着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するようになり、信仰の道に入ったという言い伝えに由来している。ちなみに老婆の出発地点は小諸の布引観音で、筆者は小諸に在住していた折に何度もお参りしている。布引観音から善光寺までは64キロ。それにしてもよく追いかけたものだ。
(注2)
このエッセーで紹介した2つの神話は『シェルゴンシェルテン(晶宝晶珠)。デウマル・テンジン・プンツォク(1672年生誕)』からの引用、翻訳。1672年という生誕年に関しては諸説あります。
ゲストハウスの前で
(注3)
マノジさんはブッダガヤからデリー経由でダラムサラに駆けつけて、現地スルーガイドとして風のツアーを手伝ってくれている(第72話)。静岡県の学校に留学していたことがあり、卒業論文は「日本のカップラーメンについて」。経営するゲストハウスには2人の愛息の名前がつけられている。
(注4)
右回りに巡礼することを右遶という。チベット語ではコルラ。
(注5)
神話の続きは僕のサイトで。
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