シルクロード大走破の番外編として設定した「イスタンブールからローマへの道」に行ってまいりました。
イスタンブールからローマまで、航路を含めると約3,300㎞。
いままでのアジアとは一味違った、しかし、どこかつながっている旅の報告を3回に分けていたします。
③イタリア編(フェリー・バーリ到着~ローマ出国)
ツアー9日目 バーリ~アルベルベッロ~ブリンデッシ
イタリア上陸です。なんせ、ほとんど日本人ツアー客のこないルートだったので、ちょっとだけ心配していたガイドさんとも無事合流。到着した港はバーリ。サンタクロースの教会がある小さな街です。そこから今日の最初の訪問地は世界遺産の町アルベルベッロ目指して、プーリア州の名産品オリーブやさくらんぼ、アーモンドの畑の中を車は走っていきます。トンガリ屋根のかわいい石造りの家が見えて来ました。もともとはお墓の建築様式だったとか。元領主は国王が住居とみなすものに課税するため徴税の際、すぐに解体できる住まいを作るように命じたため、このような家が林立することになったとか。(ホントかなあ)。すぐ解体できるものなら遊牧民のゲルに勝るものはないとおもうのだが、さすがここは石の国。恰好の石材石灰岩がわんさか取れる場所のようです。
このあたりは大地主による大規模農園がたくさんあるようで、道すがら大きな屋敷を見かけることも。
さて今夜の宿泊地ブリンデッシ。今回の旅のテーマのひとつ「アッピア街道」の終着点です。アッピア街道はローマから南イタリアの港町ブリンデッシを結ぶローマ時代の幹線道路。ローマがその領土を拡大していく中で、道路建設によってその支配を強固なものにしていきました。アッピア街道は紀元前312年に着工し、244年にブリンデッシまで完成したそうです。その終点を記念してローマ時代の円柱が立っているとのことで行ってみました。港に降りてゆく白く緩やかで幅の広い石段の最上段に立つ円柱。港を何百年と見守ってきたのでしょう。この港からはローマ時代の名だたる将軍や皇帝(アウグストゥスやカエサルなど)そして近世は舞姫「舞姫(森鴎外著)」の主人公が船で旅立っています。
ツアー10日目 ブリンデッシ~ターラント~マテーラ~ナポリ
今日の最初の訪問地はターラント。アッピア街道の要所の一つです。現在は工業都市として有名とのこと。ただ歴史は古く、ギリシアの都市スパルタの唯一の植民地として開拓されたそう。狭い運河の奥に広い内海が広がっていて商船や軍艦の拠点としてとてもいい立地です。そのためか、港の入口にはがっちりした要塞が据えられ、内海を守っていました。ここに見ごたえのある博物館があるというのでナポリへの途中に立ち寄りました。そこでたまたま「レバノン杉」という木を見ました。
その博物館がMARTA。ここで見ておきたいのは、「ターラントの金」と言われた精巧な金細工(イアリング、王冠、そして言われないとその機能が想像できない「くるみ割り器」)、そして、ギリシア文明ゆずりの赤絵式、黒絵式と呼ばれる壺絵。ワイン壺(クラテーレ)に描かれた表情豊かな絵が躍動しています。そしてローマ時代のモザイクも美しく展示されています。
続いて訪れたのが、マテーラ。2021年映画「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」の舞台にもなりました。石灰岩質の洞窟に8世紀ごろから修道士が住み着いたのが町の始まりとか。古くは、サッシと呼ばれる「入口が1つ、あかり取りの穴が1つ」のシンプルな洞窟住居が約3,000戸作られていたそうですが、今は、一見、普通の住居が立ち並んでるように見ます。近くの石切り場から石材を持ち込んで、戸口に囲いをしたり化粧板を貼ったりで家らしくしているところも多く、中に入って初めて、くり抜かれた洞窟だとわかるようです。
今は観光客でにぎわうこの町も、20世紀初頭、貧民層が流入。洞窟住居は住環境の悪さから病気の発症や致死率も高く「イタリアの恥」とされ、1950年代に国指導で団地への移転を促されましたが、この洞窟住居の特異性・文化性を見直され、今は税制で優遇するなど、転入政策を進めているとか。「水のマドンナの教会」(洞窟教会)は今も現役のため写真撮影はできませんでしたが、何度も上から塗りなおされたフレスコ画が残っていて信仰の深さを感じました。
「アンデーナ・ア・ナポリ(ナポリに行きましょう!」
さて続いてはナポリへ移動です。途中のトイレ休憩では、イタリア名物?便座なしトイレを体験したり、車内でイタリアでのコーヒーの注文の仕方を教えてもらいながらナポリを目指しました。ナポリのエスプレッソは美味しいとのこと。お客様は早速、翌朝から朝食にエスプレッソに挑戦されていました。
ツアー11日目 ナポリ~ポンペイ~ソレント~ナポリ
ナポリ、ローマはスリなどが多い、遺跡や博物館でもいる、長年住んでる日本人でさえ、被害にあっているというので、ここから気を引き締めていきましょう。「外に出るときはお金を持たない、手ぶらで出る」くらいの心構えでナポリ入りしました。結果的に、地下鉄やバスに乗る機会はなかったのと、みなさん、警戒心高めで過ごしていただいたので被害はありませんでした。
ナポリ、この日の観光はポンペイです。紀元前79年、ヴェスヴィオ火山の大噴火で噴出した大量の火山灰に街全体が埋もれたおかげで、そのままの姿で保存され、約2,000年前のローマ時代の街並みや、時にその暮らしぶりなどを、今に垣間見ることができる「街全体が博物館」のような所です。ポンペイを見ずに死ねません。
まずは「海の門」をくぐって町へ入ります。かつてここまで海が来ていたということ。坂道です。町中の道は石畳が敷き詰められ、馬車の轍も重々しく刻まれています。町中に残る家や浴場を訪ねました。
中心の広場を離れて最初に向かったのは、ヴェッティの家。奴隷身分から成りあがった金持ちの家だそうです。きれいに残る住居の区画と壁に描かれたフレスコ画がすばらしい。男根をこれみよがしに描いた商売繁盛祈願の絵やエロティックなもの、ギリシア神話をモチーフにした絵もあり、当時の信仰や習慣などにも興味がわいてきます。この邸宅では娼婦が客を取っていたという説もあり、その「サービスメニュー(?)」がフレスコ画で描かれていました。
ローマ人の入浴に関するこだわりは某漫画・映画でも証明済みのところ(?)。そんなことを考えつつ訪れたポンぺイ遺跡の公共浴場跡。その遺構は凝った装飾に、床暖機能などハイテクな設備が施されていました。
ポンペイは半日ではとても見尽くせません、限られた時間で最後に訪れたのは秘儀荘。ディオニソス信仰が流行していた当時、その信仰にともなう儀式を描いたとされているフレスコ画が、「ポンペイの赤」で鮮烈に描かれています。
この日は、ナポリからナポリ湾をはさんで対岸にあるリゾート地ソレントで昼食をとることにしました。1時間ほどのドライブです。天気もよく、ソレントからポンペイを火砕流で埋めた火山ヴェスヴィオがきれいに見えました。美しい海と山、現地ガイドも絶賛する料理を堪能したのち、帰途につきました。
今回のツアーで1,2位を争う美味しい料理でした。写真だけでもご堪能下さい。
ツアー12日目 ナポリ~カプア~アッピア街道~ローマ
さて、今日は最終目的地ローマへ移動します。途中カプアという町でコロッセオを見学します。ここのコロッセオは地上4階地下1階の構造のローマにつぐ第2の規模で、剣闘士(グラディエーター)の養成所もありました。紀元前73年スパルタクスという(奴隷)剣闘士らによる反乱のきっかけとなった町です。当初70人規模の剣闘士がヴェスヴィオ山麓に脱走し、ローマ軍と転戦しながら最終的には数十万の集団に膨れ上がって政府を脅かしたとあります。(映画「スパルタクス」カークダグラス主演、キューブリック監督作品)
剣闘士養成所での剣闘士の生活がどのようなものであったか、グラディエーターの試合のシステム、コロッセオの地下がどうなってるかを見たり聞いたりしたのち、ローマへ向かいました。
※映画「スパルタクス」に登場する架空の人物グラックスの豪邸の壁には、さりげなくポンペイ秘儀荘で見たディオニソスの場面が描かれていました。興味のある方ご覧ください。
普通にローマのホテルに入ってしまっては「シルクロード大走破」らしくない、ということで、少し手前で下車し、もうひとつの道「ローマ時代の水道」橋を眺めた後、ローマ手前のアッピア街道を歩いてローマ入りをすることにしました。
いつもなら観光客がわんさかいるはずのアッピア街道がなぜかこの日がガラガラ。ほぼ独占状態。ゆったり歩いて古代の道を堪能できました。アッピア街道は紀元前312年、政府高官のアッピウスの提言で敷設が開始されたすべての道はローマに通ずと言われ、数あるローマの街道の中で、「街道の女王」と呼ばれる道。ポンペイを火山灰で埋め尽くしたヴェスヴィオ火山の石が多く使われたとのこと。上述のスパルタクスの反乱が制圧された際、6,000人もの奴隷反逆者たちは、見せしめのため、十字架に磔にされ、その光景はアッピア街道沿いにカプアまで延々と続いていたそうです。紀元1世紀ペトロが皇帝ネロの迫害にローマを脱出を図ったものの郊外で、死んだはずのキリストに再会したのを機に、悔い改め、殉教の意を決してローマへ引き返したのもアッピア街道であったと言われています。初期キリスト教徒の共同墓地(カタコンベ)やお金持ちの墓が立ち並んでいるところでもあり、ローマの歴史が凝縮された街道と言えます。
古代ローマキリスト教徒の集団墓地カタコンベ(内部撮影禁止)や、ローマの城門もしっかり目に収め、市内ど真ん中のホテルへと向かったのでした。
ツアー13日目 ローマ~ローマ出国へ
この旅はローマが終点です。つまり今日が最終日。午前中、バチカン博物館へ。この博物館は現在完全予約制。販売開始するとすぐ完売という超難関の博物館のひとつです。幸い今回は全員入場券は確保できておりますが、それにしても大盛況です。世界中から訪問者がいるのですから当たり前か・・・。テレビや教科書でみたような美術品が目白押し。これらも戦利品であったり、教会に集まった冨に任せて作った物。その美術品をバシャバシャ写真に収めつつ、工芸品としての価値の高さにめまいを感じるとともに、信仰って何を求めてるんだ?とも。ちょっと複雑になりつつ、「これは何日見ててもあきまへんわ。」「いや、これは何日あっても足りませんわ」と思った次第。
続いてシスティナ礼拝堂。天井から壁面一面に描かれるミケランジェロの「天地創造」や「最後の審判」のフレスコ画は、ひとつひとつ聖書からテーマが選ばれているのですが、それまでの常識を覆す、天才ミケランジェロによる斬新な解釈や構図で描かれていると説明を受ける。荷物にはなるが、双眼鏡を持ってくればよかったと思いました。
システィーナ礼拝堂の次は、サンピエトロ大聖堂へ向かうのですが、団体ツアーならではの、専用の近道ルートがあるとのこと。ここはツアーの恩恵を受けることに。もし普通に見ようとすると、サンピエトロ広場を半周以上する長蛇の列に並ばなければならなかったからです。(システィーナ礼拝堂は撮影不可のため写真がありません)
ヴァチカン美術館の入口は、どこにでもありそうな城壁の一部から入場したのですが、数々の世界を代表する美術品を眺めているうちに、システィーナ礼拝堂を経て、気が付いたら、サンピエトロ大聖堂の間の前に立っていました。一人で同じ道をもう一度行けるかと問われると、自信がありません。サンピエトロ大聖堂の正面入り口は重厚な扉で閉じられていました。「聖なる扉」といって、聖年(25年に一度の、ローマに巡礼すると罪が免除される年)にのみ開かれるそうで、来年2025年がその年だそうです。聖年のローマはそれはそれはとんでもなく巡礼者でごった返すそうで、今年に来れてよかったと胸をなでおろしました。
正面は閉まってるので、大聖堂へは少し脇の扉から入りました。サンピエトロ大聖堂は、その名の通り、聖人ピエトロ(ペテロ)に捧げられた聖堂で、そのペテロのお墓の上に建てられています。今日は朝からたっぷり別世界に浸れたのですが、この大聖堂に入るや、また、圧倒されてしまいました。でかい!高い!まぶしい!それだけじゃなく、その中に名だたる彫刻家が芸術家生命をかけて彫り上げた像の数々が安置されています。見どころがありすぎでカメラをどこに向けていいか、迷ってしまいます。そして、大きすぎてカメラに収めきれない、収めてもその迫力が伝わりにくい。サンピエトロ大聖堂は、やはりそこに来なくては感じられない威光?威圧感?崇高感?がありました。
結構な入場料を取る美術館や大聖堂にもスリがいると聞いて驚きましたが、これだけの美術品、工芸品を眺めていれば、スキだらけになってしまいます。みなさんご注意ください。
ここからはローマに来たら見ておきたい、スペイン階段とトレビの泉を駆け足で巡り、午後は、ローマのメインイベント・コロッセオに向かいました。
と、その前にガイドさんが気を利かせてフォロ・ロマーノも案内してくれたので、ちょっと得した気分でのコロッセオ入りでした。
前日カプアでコロッセオを見て少し学習してるのでコロッセオの構造はイメージできてましたが、実際中に入って観覧席からステージを見下ろしてみると当時のローマ人が熱狂していたイメージが湧いてきます。
しかも、現在のコロッセオは円柱形(楕円の円柱)から欠けています。ローマの衰退ののちの時代に、地震による崩壊もあるのでしょうが、新しい教会などの建築資材に持っていかれたという話は悲しくなります。とはいうものの、日本でも古墳の石棺をお城の石垣や神社の手水箱に使ってるんだから偉そうなことはとても言えませんが。しかし、欠けていながらも美しく見えるのはどうしてなんでしょうか。
これでシルクロード大走破の終点ローマも満喫して、その夜帰国の途に就きました。14日間、いつも思いますが、長いようで終わってみるとあっという間の旅でした。
今回の旅
悠久のシルクロード大走破【番外編】
終了ツアー イスタンブールからローマへの道14日間