民博友の会講演会「モンゴルとSDGs」を聴いて(その4)グローバルじゃなくグローカル

前回、地球研の所長の山極壽一氏の「環境問題の本質は文化」という論を紹介した。山極氏は小長谷氏との対談の中で「地球研は、グローバルじゃなくグローカルシィンキングでSDGsに取り組んでいる」。とも語っていた

グローカルとは、グローバルとローカルを合わせた日本で生まれた造語だ。大辞林を引けば「国境を越えた地球規模の視野と、草の根の地域の視点で、さまざまな問題を捉えていこうとする考え方グローカリズム」。と定義されている。ローカルだと視野が狭くなってエゴにもなる。グローバルだと普遍性はあっても、現実との矛盾が大きすぎて身に降りかかる諸問題が捨象されてしまう。私は、どんな局所すなわちローカルな課題であっても、課題解決には普遍的な価値が必要だと思っている。

例えば、しばらく前から、ネパールの山村で小規模水力発電が最近よく見られるようになったが、電気がなかった村は、夜も明るくなって、パラボラアンテナを入れればテレビも楽しめるようになった。他の村が停電していても、その村だけは明るい。小規模水力発電は持続可能だしまさにSDGsな取り組みだった。

何年かしてその村に道路が通るようになると、電化製品で便利な生活を覚えた若者は、もっと豊かな生活を求めて都会へ吸い寄せられていった。一方村は、道路のお陰で、週末に都会から遊びに来る人たちが増え、その来訪者を目当てにロッジが立ち並び、静かな村は騒がしくなった。ゴミも増え村は汚れていった。もちろん、けして少ないお金が村に落ちた。しかし、長くは続かなかった。何年かしたらヒマラヤがもっと雄大に見える奥の村まで道路が通り、街の人々は、この村を通り過ぎるようになった。そして、ロッジの経営者には借金だけが残った。

小規模水力発電の意味は何だったのか。村の生活や習慣、そして文化を守ることには繋がらなかったのだ。科学だけでは、やはり環境問題は解決できない。「環境問題の本質は文化」という山極氏の言葉を再度噛みしめたい。

しかし、文化の価値は、環境問題に対してだけだろうか。人間が、心豊かに生きるにはやはり文化がある。文化には、功利主義や人間の利害を超えた概念・哲学があり、それは、意図し、意識し、継承し発展させないと崩れていってしまうと私は思う。

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