東門から入り、大きな鳥居の前で拝礼し鳥居をくぐった瞬間、霊的な世界に身を委ねるような気分になった。幅15 mはあろうかという広い参道を鬱蒼と茂った大木が覆いつくしていた。雨が降っていたせいもあるが、光が遮られ体に冷気を感じ身震いした。
200 mほど歩くと、南に位置する正門から続く参道にぶつかり、本宮に向かって右折した。本宮手前の参道の右側に熱田神宮の由来などが書かれた掲示板が50 mほど続いていた。それを端から丁寧に読んでいると、汚れたジャージ姿のおっちゃんに声を掛けられた。「ここには剣がある。テレビのは偽物だ」。上皇が、4月に天皇退位を伊勢神宮に報告された際にもっていった草薙の剣は偽物で本物はこの熱田神宮にあるというのだ。
確かに、御所の剣璽の間にある三種の神器の内、鏡と剣は形代だといわれている。形代とはレプリカとは違い「神器に準ずるもの」という意味だ。本物の鏡は伊勢神宮の内宮に、剣は熱田神宮にあるという。しかし、剣と勾玉は安徳天皇が入水したときに一緒に海に沈み、勾玉だけが箱に入っていて浮いてきて回収され、今も御所の剣璽の間にあるが、剣は、海に沈んだままで失われたという説もある。しかし、そもそも沈んだ剣は形代だともいわれている。真偽は私にはわからないが、三種の神器の本物は、鏡は内宮に、勾玉は剣璽の間に、剣は熱田神宮にあるといわれている。
おっちゃんは、そのまま私たちのガイドとなり、私たちは一時間ほどこのガイドについて熱田神宮観光をすることになった。最初は、面倒なことになってしまったと思ったが、思いのほか充実した時間を過ごすことができた。なんといっても感激したのは、草薙の剣が祀られている場所をこっそり教えてくれたことだ。境内の解説図にも解説パンフにも草薙の剣がどこにあるかなどということは書いてない。おっちゃんは、何故そこにあるかも丁寧にかつ自慢げに説明してくれた。やはりその真偽は分からないが、私は、このおっちゃんのいうことを信じることにした。その方が楽しい。
おっちゃん曰く、「千木が外削ぎなら男神、内削ぎなら女神、鰹木が奇数は男神、偶数は女神。熱田神宮は、主祭神の熱田大神とは草薙の剣を御霊代とする天照大神だから、内削ぎで偶数。熱田神宮にしかないお守りが一つある。それは「白鳥のお守り」。何故なら、日本武尊は…」。もうこうなると話が止まらない。「まだお参りをしていないので…」と何とか本宮の前で別れた。お礼を渡そうかとも思ったが、“熱田神宮ファンのおじさんの好意”を無にするような気がして渡しそびれてしまった。あの身なりから想像するに一人暮らしの老人に違いない。今夜の一杯を供するべきだったかと後悔した。
夕方、近鉄で津まで行って一泊。翌日は朝から伊勢神宮へ行った。今度は、ガイドのおっちゃんもいないので解説パンフを頼りに、外宮から内宮へとお参りし、おかげ横丁で食事をとった。相席となった同年配のご夫婦と少し話ができた。岩手から車で来たそうで、東京を抜けると時間がかかるからと、秋田、山形から新潟を抜けてやってきたそうだ。ホテルが取れないから24時間開いている駐車場に入って車中泊。全部で10日間ほど釣りをしたりしてぶらぶらするそうだ。なんとも羨ましい旅である。
夕方には、再び近鉄で鶴橋まで出て天王寺まで行って一泊。翌日は、住吉大社を参拝した。住吉大神は、伊邪那岐の尊の禊祓の際に海中から出現した底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神と同社で鎮斎した神功皇后である。故に「祓の神」として崇拝され、同時に、航海安全の神として遣隋使・遣唐使の派遣の際には必ずここで海上の安全を祈願したそうだ。この日、境内では、「住吉踊り」と「江戸かっぽれ」が奉納されていて一段とにぎやかであった。
参拝を済ませると今度は、電車を乗り継いで大阪を抜けて天橋立へ向かった。「股覗き」などして少々観光し、翌日は舞鶴に立ち寄り「引き上げ記念館」を訪れた。私が生まれた1956年は日ソ共同宣言が調印された年で、翌々年の1958年までシベリア抑留者の引き上げが13年間にわたってこの舞鶴で続いた。『不毛地帯』や『終わらざる夏』を読んだ時から、舞鶴にはいつか行ってみたいと思っていた。
次回は、京都福知山、奈良橿原によって、出雲の国に行こうと思う。
※風の季節便 vol.13より転載