日本にゴッホが紹介されたのは、没後20年目の1910年、まさに大正デモクラシーが始まろうとしていた年である。同年に創刊された『白樺』誌上で、洋画家であり美術評論家でもあった斎藤與里によって初めて日本に紹介された。
『白樺』の影響でゴッホへの憧れは次第に熱を帯び、芸術家の中には、ゴッホが37歳で早世したオーヴェル=シュル=オワーズの地まで巡礼に出かける者まで現れた。目的は20点ものゴッホ作品が観られる医師のガッシュ家訪問。ゴッホを健康回復のためにオーヴェールへ招いたのはガッシュ氏である。
当時の日本には、ゴッホの絵は、1920年に実業家の山本顧弥太が購入した通称「芦屋のひまわり」の一点しかなかった。この「ひまわり」は残念なことに戦災で焼失。実は、山本顧弥太は白樺派のリーダー武者小路実篤に頼まれて2万円(現在なら約2億円)を投じて買ったという。白樺派が、セザンヌ、ゴッホ、ルノワールなど印象派、後期印象派の西洋美術を日本に広めたといえよう。
実は、原田マハ著『たゆたえども沈まず』と『ゴッホのあしあと』(幻冬舎文庫)を読んでみた。きっかけは、損保美術館でゴッホの「ひまわり」を観たことだ。原田マハは、以前『キネマの神様』で取り上げたが、実は、早稲田大学第二文学部美術専修を卒業しニューヨーク近代美術館に勤務後にキュレーターとして独立している。ゴッホを書きたくても近寄り難くなかなかかけなかったそうだ。まるで触ると壊れてしまいそうなゴッホの精神に触れるのが怖かったのかもしれない。
周知の通り、ゴッホには、日本の浮世絵と印象派の絵が大きな影響を与えた。『たゆたえども沈まず』には、ジャポニズムといわれた日本美術大流行の立役者でもある日本人画商・林忠正が登場するがゴッホとの交流の証はない。そして、ゴッホの4歳下の弟、テオドロス・ファン・ゴッホ通称テオ、そしてテオの友人で林の部下である加納重吉(架空の人物)、そしてゴッホの4人の物語である。
どこか、太宰治と共通するようでまったく違うとても純粋でまっすぐなゴッホの精神は、悲しくなるくらい脆い。その脆さが、日本人の共感を呼ぶのだろうか。改めてゴッホの絵を観たら、そんなゴッホ繊細な心の揺れを感じられるかもしれない。
《奇妙な日本入国》
ようやく始まった海外往来も、成田空港では入国に4~5時間かかっています。MONGOL KAZE TRAVELから4/22にハグワ社長が来日しましたが、やはり入国に4時間かかったそうです。外国人からは“日本は理解できない” と酷評され、“日本が観光客を受け入れないなら日本は外そう”とまで言われています。この水際対策の改善を強く求めていますが、今のところ目途は立っていません。