すっかり『キングダム』で“有名”になった秦の始皇帝だが、私が、真っ先に思い浮かべるのは兵馬俑(へいばよう)や阿房宮(あぼうきゅう)。後は、高校の世界史で習った万里の長城と焚書坑儒くらいである。最近、しばらく中断していた陳舜臣の『小説十八史略』(講談社文庫)をまた読み始めた。第一巻の終盤は嬴政(えいせい)の話である。
嬴政(えいせい)または政、後の始皇帝は幼少期は不遇であった。政の出生の秘話は、秦の大商人呂不韋(りょふい)が商人に飽き足らず太子をかついで宰相に、あわよくば王にすらなろうという野望から始まった。呂不韋は当時の秦王・昭襄王の太子・安国君の子・子楚(しそ)を太子に担ぎ、その後見人的存在となり野望を遂げようとしたのである。
子楚は、実母が安国君に疎まれために趙の国に人質として送られていたが、呂不韋は安国君の寵愛を受けていた子のない華陽夫人に近づき子楚を養子にするよう薦め、まんまと成功させる。太子となった子楚は呂不韋の妾・趙姫(ちょうき)に惚れ込み、呂不韋は、それも悪くないと考え趙姫を渡す。その時、趙姫の腹の中には政がいた。子楚は荘襄王となったが在位3年で早逝。政が13歳で即位した。呂不韋は相国(しょうこく)・太政大臣となり野望は実ったのである。(出生に関しては異説あり)
ところが、呂不韋は政のことを見くびっていた。呂不韋は趙姫とよりをもどし日本の大奥にあたる後宮(こうきゅう)に出入りした。ある日、呂不韋は少年王・政に呼び出された。「これ以降は、後宮への出入りは遠慮せい」「何故に?」「血に甘えるでないぞ」「えっ、血とは?」「わしとその方のことじゃ」。13歳の少年王は全て知っていた。政は20歳を超えたころ、呂不韋を追い込み自害させる。逆らう者は取り除く。それが政のやり方だった。
こういうドラマのような話はともかくとして、私は、始皇帝の最も特筆すべきことは、封建国家を否定し法家思想に立脚した中央集権国家をつくり上げたことだと思う。その基礎を作ったのは、衛の生まれで魏に仕えた後、秦に亡命した商鞅(しょうおう)である。商鞅は、法家の実践家で、法家の理論は、荀子とその弟子韓非子が確立した。その韓非子も韓から政に請われて秦に招かれたが、逐客令(他国人追放令)が出されたときに犠牲となり服毒して自害した。韓非子は極度のどもりで全ての思想を書き記した。だから亡くなっても支障はないと政は判断し切り捨てたという。いやはや、冷徹である。
秦も始皇帝が37年の在位を閉じ崩御した途端、崩れ始める。この先は、『項羽と劉邦』のドラマになるが、中央集権国家は郡県制を敷いた長期政権・漢に引き継がれ、その後も皇帝が官僚制を敷いて強大な力で治める。それが中国の伝統になったといえよう。しかし、法家はすたれ儒家に取って代わられる。何故か。人は、法だけでは生き難いということか。それとも長期政権になることで陋習がはびこったのか。ルールで縛るのか、徳に任せるのか。古くて新しい問題である。