現在のネパールのダハル首相は、ネパール共産党毛沢東主義派(通称マオイスト、略称MC)の党首であり、別名はプラチャンダ。ネパールにおける共産党の歴史は1949年に始まる。離合集散を繰り返し1995年にMCが結成されるが、その初代総書記が彼である。2001年ころから、日本でも警察や銀行が襲われたと度々報じられた。彼こそが、あのマオイスト対政府武装闘争のリーダーである。
この内乱ともいえる状況が、年間約5万人を数えていた日本人観光客の急激な減少をもたらし、弊社も随分苦々しい思いをした。マオイストの実効支配が全土の7~8割に達したときには、ポルポト政権の様になるのではないかと心配したが、2006年、MCは武装闘争をやめ議会制民主主義の枠で政治活動を始めた。
現在のネパールには、このMCの他に大きな政党があとふたつある。その1つは「ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(UML)」という派は違うがもうひとつの共産党である。UMLは、1990年の民主化運動(ジャナ・アンドラン)の時に誕生している。
2018年5月にはこの2派が統合し、議席数2/3を占めるネパール共産党(NCP)が誕生したが、派閥闘争が絶えず2020年には分かれしまった。もう1つは、1947年にネパール結成された「ネパール会議派」(通称コングレス、略称NCP)である。このNCPも政治的立場は社会民主主義であり中道左派である。この3党が現在のネパールの政治を形作っている。
ネパールは戦後、一旦は立憲君主制となったが、1960年にマヘンドラ国王がクーデターを起こして議会を解散。王制を支える長老政治・パンチャヤート制を1990年まで敷いた。この前近代的な事実上の絶対君主制が30年も続いたことがネパールの近代化を遅らせた。
1990年の民主化運動は、絶対君主制からの脱却という意味では1789年のフランス革命と同じような意味合いをもっていた。フランスでも革命後に帝政が復活するように、ネパールでも2005年にはギャネンドラ国王が非常事態宣言(事実上の戒厳令)を発し、再び絶対君主制に戻ってしまうが、それが逆に王制廃止を早めたともいえよう。
たった3年でギャネンドラ国王の野望は断たれ、2008年王制が廃止され共和政がスタートした。今思えばMCの武装闘争は、王制廃止へのステップだったかもしれない。しかし、私にとっては、あまりにも生々しく、歴史的な一過程として客観的に認識するのは難しい。
王制を復活させる勢力もなくはないが極少数である。もはや王制に戻ることはないだろう。近年のネパールの経済成長率は2015年のネパール大地震とコロナ禍を除けが3~8%ほどを維持している。ネパールは確実に変わってきている。
しかし、今、大きな危惧が生じている。2017年、中国と一帯一路で覚書を交わし、中国からの鉄道、道路を通すことに合意し、実際、ムスタンを抜けて中国へ通じる道路が建設中である。しかし、米国からの圧力が加わり、そこにインドも絡んできている。大国に挟まれなんとか中立を保ってはいるが、難しいかじ取りを迫られている。
もはや、村政治のような権力争いを繰り返している場合ではない。大所高所に立ってネパールを前進させてほしい。