2回に亘ってネパールの歴史を振り返ってきた。今回で3回目だが、今までのところを概観してみると、ネパールは、1768年のシャハ王朝(ゴルカ王朝)の全土統一までは、350ほどの小王国に分裂していて、マッラ王朝が8世紀ごろから台頭したが、彼らの支配はカトマンズ盆地周辺のみであったということである。丁度、大和朝廷が大和盆地を支配していた構図に似ている。
15世紀から17世紀にマッラ王朝はカトマンズ盆地内でカトマンズ、パタン、バクタプルの3王国並立時代を迎える。3王国は競い合って寺院等を建立し大いに繁栄した。文化が栄える時代は平和な証拠である。現在のネパール観光は、この時代の恩恵にあずかっている。
その後、ゴルカの地から進出してきた勢力が1768年にネパール全土を統一した。これがシャハ王朝(ゴルカ王朝)であり2008年の王制廃止まで続くことになる。これを「ネパール王国」というが、ネパールは統一されてから250年間、王朝が変わらなかった国である。しかし、1768年とは、欧州ではフランス革命直前。産業革命もとっくに始まっていた時代である。日本はまだ江戸時代。ネパール同様欧州には大分遅れをとっていたが明治維新で挽回していくことになる。
一方、シャハ王朝は、1768年の統一後30年もしないうちにチベットと戦い敗北。清の朝貢国家になってしまう。そこからまた30年弱で、今度はイギリス(東インド会社)と戦い敗北。イギリスの保護国家になる。現在もインドと中国に挟まれ顔色を伺いながら政策を決めるネパールだが、最近は、ここに米国が入ってきて複雑さを増している。さらにその約30年後の1846年にはラナ家の宰相独裁政治が始まりシャハ王家はラナ家の傀儡になり果てるが、それが100年以上も続いてしまう。
第二次世界大戦後、漸く1951年にトリブバン国王が亡命先のインドから帰国して王政復古を果たし立憲君主制を宣言した。これによって1846年から100年以上続いたラナ家の支配が終わった。ラナ家を藤原氏に見立てれば平安時代から一足飛びに明治維新へ移行したようなものだ。また、ラナ家の宰相政治を徳川幕府に見立てれば、日本に80年ほど遅れての明治維新といえよう。ネパールの近代化にとって如何にラナ家の支配が足枷になったことか計り知れない。しかし、ここからもスムーズにいかないのがネパールの難しさである。
1959年、初の総選挙が行われ、ネパール会議派(1947年結成)が勝利しコイララ政権が誕生し、立憲君主制は順調に始動したかに見えたが、コイララ政権が封建的諸制度の改革と近代化を急いだために国王と対立。トリブバン国王の跡を継いで1955年に即位したマヘンドラ国王が、1960年にクーデターを起こし、1962年、新憲法制定。政党禁止、パンチャーヤト制、ヒンズー教の国教化などを実行に移した。なんと絶対君主制に逆戻りしてしまい、それが1990年の民主化運動(ジャナ・アンドラン)まで30年近くも続く。この先は、前々回に書いたが、最終的には2008年の王制廃止、共和政樹立までいく。
私は、1988年以来、ネパールとは35年ほどの付き合いになるが、現在は、政党間の駆け引きなどあるものの漸く民主主義が根付きつつあると感じる。日本でいえば、戦後の民主主義が始まったくらいか? 経済的には高度経済成長の入り口といったところだろうか。経済的貧困を脱却するには政治的安定が欠かせない。すべては、根付きつつある民主主義をどう安定させるかにかかっている。