旅こそが創造の源泉

国立新美術館で「マティス 自由なフォルム」展をやっている。5月27日までだ。これに呼応してか、3月10日にNHKの日曜美術館で「マティス 旅こそが創造の源泉」をやっていた。マティスに限らないが、この時代の画家たちは、よく旅をしたようだ。

マティスは、1905年に南仏コリウールを訪れ、この街に溢れる見たこともないような光と色にたちまち魅了され、3か月半にもわたって滞在した。この町では、漁師たちが船に塗るペンキで家を塗り始めたのを切掛けに、家のドア、扉、壁をピンク、青、緑など実にカラフルに塗るようになった。そこに南仏の明るい光が広がり、パリとは全く違う原色に彩られた眩しい風景が広がっていた。

マティスは、南仏コリウールで色彩の表現が本格的に開花し、1906年の第2回サロン・ドートンヌ展にマティスは《帽子を被った女性》と《開いた窓》を出品した。原色を大胆に使った色使いとその荒っぽい描き方は、フォーブ(野獣)のようだと酷評され散々な非難にあった。しかし、マティスはアンドレ・ドランに同調したグループ・フォービズム(野獣派)の中心メンバーだったが、マティスは僅か3年でフォービズムを離れている。

私は、この時代のマティスの絵が大好きだ。やはりゴッホの絵に似ている。《帽子を被った女性》はもちろんだが、《緑の筋のあるマティス夫人》も素晴らしい。同時代になるだろうがアンドレ・ドランが描いたマティスの肖像画は、アンドレ・ドランを知らない時から大好きな絵である。

マティスは、ポスト印象派、中でもゴッホの絵の影響を受けたといわれている。ゴッホがパリを脱出し、南フランスのプロバンス地方のローヌ川沿いのアルルに行き、ひまわりを描き、ゴーガンと暮らし、耳切事件を起こしたことはあまりにも有名だ。セザンヌは、南仏のエクス・アン・プロバンスで生まれ、その生涯をエクスで閉じた。エクスのヴィクトワール山の絵が印象的だ。ゴーガンのタヒチは、南仏とは別の非ヨーロッパ的なものを求めての「脱出」かもしれない。

1828年にジェームス・ハリスが注射器の形をした絵の具を考案し、1841年に取り扱いが格段に楽になった錫のチューブ絵の具が出るまでは、絵の具を簡単に持ち運べないので、絵は、アトリエで想像しながら描くものだった。ゴッホは1853年生まれだから、あれだけの絵を短期間に描けたのもチューブ絵の具のお陰かもしれない。

そして、1841年に焼増しができる「ネガポジ法」が考案されカメラが普及していくにつれ、写実的な絵は意味がすっかり薄れてしまった。次第に、画家自らが、自らの感性、個性をどう表現するかを求めだした。まさに近代の幕開けである。それが、印象派、ポスト印象派、フォービズム、キュビズムなどなどだ。文学や音楽の世界も同じ流れの中にあったという。19世紀から20世紀初頭・第一次世界大戦までのヨーロッパは、じつに興味深く、私は、今、この時代に引き寄せられている。

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