運命を受け入れる

先週から大河ドラマ「八重の桜」をNHKオンデマンドで再度見始めた。幕末における会津のおかれた位置を知り、会津藩そのものの歴史を辿ってから「八重の桜」を見ると実に面白い。

会津若松は遠い。江戸から約300km。この距離の遠さが、会津をしてあの悲しい運命を辿らせたのではなかろうか。会津の独特な世界感に触れるとそう感じてしまう。江戸の塵も芥も及ばなかったのだろう。司馬遼太郎をして“会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思われる”と言わせしめたのも理解できる。その朱子学を基本とした道徳観は、後の太平洋戦争中の教育勅語などを想起させたりもするが、純粋で雑味を全く感じない透明な空気が流れている。

会津藩祖保科正幸は、寛文8年(1968年)徳川家に忠義を尽くすことを藩の方針とし「15条の家訓(かきん)」を定めた。その最初に「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」(将軍家に忠勤を励むように。他藩がしていることを見て自分たちもこれくらいでよいなどと考えてはいけない。もし二心を抱くような君主がいるようなら、その者は私の子孫とはいえないから、家臣たちもその者に従ってはいけない。)とある。この家訓が幕末の会津藩の運命を決めた。

第9代藩主松平容保は、若くして幕末の会津を担う運命を背負った。京都守護職就任を自身、繰り返し固辞し、西郷頼母をはじめとした家臣にも猛反対されたが、最終的にこの家訓に従い反対を押し切って京都守護職を引き受けたといわれている。松平春嶽が策を弄してこの家訓を持ち出し、“命を拒むのは家訓に背くこと”と迫ったともいわれている。結果として、会津戦争敗戦、廃藩、斗南での藩再興、再興から2年後の廃藩置県、とい悲惨な結果を招いた。しかし、京都守護職に就いたことで後の官軍の恨みをかったことは確かだが、引き受けなかったとしても、会津は会津らしく歴史を駆け抜けたように思う。

会津といえば白虎隊を思い起こす。その悲劇は涙を誘う。これに西郷頼母の妻・千重子他一族21名の自刃も加わると、名状しがたい感情に襲われる。あまりにも会津は正直すぎる。形勢を見て有利な方につこうなどとは考えない。保科正幸が徳川家康の孫であり、第2代将軍徳川秀忠の子だったからか、家訓通り、徳川家に忠義を尽くすにしてもあまりにも一筋だ。

戦後、経済優先のプラグマチックな価値観が支配し、高度経済成長からバブル崩壊くらいまでそれは続いたが、失われた30年を通り過ぎ、今は、個々のライフスタイルを重視し、ダイバーシティを基調とする個の権利が優先される社会へと転換しつつあるように思う。私は、それはそれで素晴らしいと思うが、会津の「什の掟」の教えもまた、実に単純明快で私は腑に落ちる点も多い。もちろん、時代にそぐわない教えもあるが、理屈よりも、凛とした生き方を示していると感じる。吉田松陰は「至誠にして動かざるものは、未だこれ非ざるなり」といった。これまた真っすぐ過ぎるくらい真っすぐだ。

今日も、悲しいくらいの円安が進んでいる。加えて航空会社の収益優先施策に翻弄され、現地のインフレにも直面し、不如意にも海外ツアー代金は高騰している。今は、「ならぬことはならぬものです」と運命を受け入れ、目の前の商品づくりに精進し踏ん張るしかない。

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