添乗報告記● 【現地集合・解散】奈良県の神話のふるさと~生駒山地と平群谷をあるく(2025年1月)

ツアー名: 【現地集合・解散】奈良県の神話のふるさと~生駒山地と平群谷をあるく
旅行期間: 2025年1月12日(日)~1月13日(月)
文・写真: 立花誠(東京本社)

神話のふるさとをあるく…

私の手もとに2冊の古書(旅行ガイドブックに分類される本)があります。
どちらもいまから50年ほど前に書店に並んでいた本で、いずれも初版本です。
奈良県の有名なみどころに加え、あまり知られていない史跡やみどころが掲載されています。
・奈良歴史案内(松本俊吉著)
・私鉄沿線シリーズ7 近鉄沿線ぶらり散歩 奈良線/京都線(ナンバー出版)
長髄彦、饒速日命、稲蔵神社、岩蔵寺、おまつの宮・・・市販のガイドブックには掲載のない神々や史跡・寺社が載っています。
今回のコースの原点は、もしかしたら小中学生の頃に読み耽ったこれらのガイドブックだったのかもしれません。
その後、2000年、2020年、2021年、2022年と、ツアーで訪れる場所を何度となく訪れました。
神話の登場「人物」-たとえば神武天皇や長髄彦や饒速日命がどこで何をしたかを考察するのは無意味かもしれません。
しかし、伝説や神話を創り出すきっかけとなった「何らかの史実」があったことは容易に想像できます。
また、自らの祖先と位置づける神々の事績を高めようとする「実在した豪族たちの思惑」があったであろうことは否定できません。
神話や伝説の舞台を示す碑も、先祖から子孫へ口伝で伝わった「伝説の記憶」をとどめようとした結果の産物かもしれません。

1/12(日) 生駒山地をあるく

今回のお客様は、東京から来られた2名様。最少催行人員は4人でしたが、今回は特別に2名様でお受けしました。

初日は近鉄の富雄駅をスタート地点として、生駒山地を歩きました。
凍てつく寒さのため、オプションでバス・電車で移動する区間を増やしました。
生駒山地の旅は、神話のふるさとを示す石碑や、古代の巨石信仰・自然崇拝の対象であった巨石・巨岩(磐座=イワクラ)を訪ねる旅です。
初日は日向から東征して大和を平定したとされる神武天皇と、天磐船に乗って高天原からやってきたもう一人の天孫・饒速日命がテーマ。
神話の時代に生駒山地を統治していたとされる長髄彦も関係する神話の舞台や伝説地、聖地をまわりました。
一日では語り切れないほど膨大な神話や伝説を目的地の前で、そして移動中に、かいつまんで説明しました。
そもそも神話に登場する神である神武天皇や饒速日命に『史跡』然とした石碑が建っていることに不思議を感じる人もおられるかと思います。
饒速日命に到っては、お墓と称されるものまであります。

場所は奈良県生駒市の北部。
茶筅の里・高山、スポーツ施設やレジャー施設が点在する黒添池周辺、府県境を接する大阪府と同じ集落名を共有する傍示などがある地域です。
天孫・饒速日命(天照大神の子であるアメノオシホミミの子とされる)は、この地に降臨して豪族・長髄彦の妹を娶ったとされます。
神武天皇は吉野・熊野方面から北上して生駒山地に到達し、紆余曲折の末、長髄彦の本拠地に迫ったとされます。
饒速日命は、長髄彦の義弟でしたが、神武天皇に味方することに決めたとされます。
神話のふるさとや伝説の地に碑が残されていることで、神話・伝説がまるで「活きた歴史」のような錯覚を覚えます。
それにしても、その石碑たち、とんでもない場所にあったりするからたいへん。
・饒速日命の妃で長髄彦の妹とされるミカシキヤヒメ御炊屋姫の墓という『夫婦塚の碑』は田んぼの真ん中

夫婦塚の碑(御炊屋姫の塚伝承地)

夫婦塚の碑(御炊屋姫の塚伝承地)


・神武天皇の杖に金の鵄がとまったことで相手の戦意を喪失させた場所という『金鵄発祥處の碑』は人家の庭を通った先にある茂みの中
金鵄発祥處の碑(鵄山)

金鵄発祥處の碑(鵄山)


・饒速日命の墳墓は、スポーツグラウンドの裏から山道を登った場所
饒速日命墳墓

饒速日命墳墓


大和朝廷成立の時期はいつだったのか、諸説ありますが、こうした碑(いしぶみ)を見ると、碑の建つ場所が特別な場所であったと思えてなりません。

古代~近世の人たちが生駒山地を神秘的な場所と考えたのは、ひとえに神様が宿るという磐座(イワクラ)がたくさんあるからかもしれません。
村の中の小さな修験道の行場といった感じの岩蔵寺の境内は磐座そのものだし・・・

岩蔵寺の磐座

岩蔵寺の磐座


稲蔵神社には饒速日命と一緒に降臨した神々が宿ったという烏帽子岩があったりします。
稲蔵神社の烏帽子岩

稲蔵神社の烏帽子岩


お松の宮との愛称で呼ばれる住吉神社の裏山は星が森といい、隕石が落ちた場所という伝説もあるとか。
住吉神社(おまつの宮)

住吉神社(おまつの宮)


そして大阪府交野市にある磐船神社は、饒速日命が乗ってきた天乃磐船という伝承があります。
磐船神社とご神体の磐座

磐船神社とご神体の磐座

天誅組について

風雲急を告げる幕末・文久三年(1863)、尊王攘夷というイデオロギーを掲げ、長州藩は京都の朝廷を抱き込んで、徳川幕府の存在を有名無実とし、一挙に天皇を中心とする政治体制を確立させようと画策していました。長州の久坂玄瑞、久留米の真木和泉等がその中心にいました。彼らは孝明天皇の大和行幸を実現し、その大和行幸を以て日本が天皇を中心とする国家であるということを、国の内外に宣言するという計画を立てました。しかし、長州が新しい体制づくりを独占することを恐れた薩摩藩が、佐幕の中心であった会津藩・桑名藩と手を組み、薩摩派の公家や一会桑(一橋徳川慶喜・会津潘主松平容保・桑名藩主松平定敬)を支持する公家を動かして、長州藩の企みを潰し、長州藩や長州に操られていた三条実美をはじめとする七人の公家を京都から追放します(八・一八の政変)。
八・一八の政変が起こる少し前、大和行幸に先駆けて穀倉地帯である大和の幕府直轄領を平定し、人心を朝廷に傾けるべく、立ち上がったのが天誅組です。天誅組は土佐の郷士や諸藩の有志で構成され、どの藩の後ろ盾もなく、公家の中山忠光侍従を首班に据えて決起しました。この暴発ともとれる行為には、久坂玄瑞や真木和泉も消極的であったとされます。天誅組は泉州・堺に上陸し、千早峠を越えて大和の天領の行政機関であった五條代官所を襲撃し、代官・鈴木源内らを殺害し、各方面に天朝に味方せよと檄を飛ばします。しかし、八・一八の政変により、朝廷が幕府支持に転じたことで、彼らは一夜にして逆賊となり、また朝廷は幕府や諸藩に天誅組の討伐を命じます。高取城攻撃に失敗し、十津川郷士から徴兵した兵士にも離反された天誅組は次第に追い詰められ、十津川郷(大峰山系の西)や北山郷(大峰山系の東)を転々とした挙句、東吉野へと落ちのびてゆきます。彦根藩(井伊家)、津幡(藤堂家)などに包囲された天誅組は、中山忠光(病的な暴君であったと記録されています)のいる本隊を長州に落ちのびさせるために決死隊を組織し、東吉野の鷲家口で悲劇的な玉砕を遂げます。天誅組の最高幹部である三総裁・土佐の吉村虎太郎、岡山の藤本鉄石、三河・刈谷の松本奎堂の壮絶な最期はいまも東吉野で語り継がれています。その天誅組に、法隆寺の寺侍(旗本でいうと用人のようなポジション)の伴林光平がいました。河内国志紀郡林村(現在の藤井寺市で林)で生まれ、仏道・朱子学・国学・和歌を究めた光平は天誅組が決起すると加盟し、記録係として、天誅組の決起から崩壊に到るまで、貴重な記録『南山踏雲録』を残しています。東吉野で天誅組が壊滅する前に本隊から脱し、西へ向かう途中、生駒の田原で捕縛されました。奈良奉行所の役人も伴林光平の弟子であった者もあったといいます。彼は翌年(元治元年)京都六角獄舎で刑死します。
田原で捕縛された伴林光平はどこに行こうとしていたのか?つかまっていなければどうなっていたのか、気になるところです。

天誅組“伴林光平”辞世の句碑(磐船神社)

天誅組“伴林光平”辞世の句碑(磐船神社)

かつてこの地域には、飲食店やトイレが極端に少なかったですが、いまはレストランや商業施設、コンビニエンスストアがあるので、問題ありません。
この日のランチはパン屋さん(ブーランジェリー)の展開するレストランで洋食のセットをたのみました。

パン屋さんのレストランが提供するランチ(イメージ)

パン屋さんのレストランが提供するランチ(イメージ)


ランチのセットはパン食べ放題でした

ランチのセットはパン食べ放題でした


夕食は生駒山の門前町にあるインドネシア料理を食べました。
生駒聖天の門前町のインドネシア料理のレストラン

生駒聖天の門前町のインドネシア料理のレストラン

奈良の観光客もめったに訪れないような場所に、『食のグローバル化』が進んでいることに驚きを禁じえませんでした。
生駒の夜景をたのしみながら、一日目を終えました。

旅館から見た生駒の夜景

旅館から見た生駒の夜景

1/13(月) 平群谷をあるく

2日目は平群谷を回りました。
平群谷の旅は、神話よりも古代史にまつわる遺跡・史跡が多いコースで、古墳や延喜式神名帳に名を連ねる古い神社を訪ねる旅です。
しかしながら、既にもともとの祭神がわからなくなっている神社も少なくありません。
藤原不比等死後、一時的に朝廷の主導権を握りながら、讒言により失脚し、命を落とした長屋王と吉備内親王ご夫婦の墓、境内に男性のシンボルの形をした石を祀る船山神社、女性のシンボルの形をした石を祀る石床神社旧社地などを巡りました。
かつては神宮寺を有する大きな神社であったところも、明治の廃仏毀釈により神宮寺が衰退してから寂れてしまった例も少なくありません。
神道のみを国家の宗教と定め、神宮寺を排除した結果、神宮寺とともに衰退する神社もあったというのは皮肉なものです。
最初に訪れたのは雲甘寺坐楢本神社。つれあいのイザナミが火の神を産んだ際に大やけどのため亡くなり、イザナギは嘆き悲しみ黄泉の国にイザナミを迎えに行きますが、イザナミは「黄泉の国の食物を食べてしまったので現世には帰れないが、黄泉の国の神に一応、交渉してみるけれど、その間は、決して私の姿をみないで」というが、イザナギは約束を破り、イザナミの変わり果てた姿を見てしまい、大喧嘩へと発展。イザナギは黄泉の国と現世の境を千引の岩で塞ぎます。イザナミは「私はあなたに恥をかかされた報復としてあなたの国(現世)の民を一日千人殺すから」といい、イザナギも「それなら私は1500の産屋を建てよう」と返し、両者の関係は修復不可能な状況に・・・そのときこの神社の祭神となるキクリヒメが何事かを言上したところイザナギは満足してその場を立ち去ったとある。何を言上したかは謎とされています。その昔、神(この場合イザナギ)に仕える者として、高位の巫女がいました。時として巫女は神の花嫁と位置付けられます。前後の状況で推理すると、キクリヒメは高位の巫女であったと思われます。おそらくキクリヒメはイザナギに「私が代わりにお嫁さんになってあげる」と言ったのでは?

雲甘寺坐楢本神社拝殿。単に『楢本神社』とも呼ばれる

雲甘寺坐楢本神社拝殿。単に『楢本神社』とも呼ばれる


船山神社は男性のシンボルである陽石や女性のシンボルとおぼしき水盤があり、社殿の修復をしていました。お賽銭箱は倉庫の前に置かれていました。
船山神社の陽石

船山神社の陽石


船山神社の水盤

船山神社の水盤

平群神社は祭礼の日で、集まった氏子の方たちとお話をする機会を得ました。

消渴神社の、願掛けをするときに12個のどろ団子を作り、満願成就の暁には米の団子を12個お供えするという、そのどろ団子を見ることができました。
古墳の石室を覗けるようになっていて、古墳の構造を深く知ることができました。

消渴神社のどろ団子殿

消渴神社のどろ団子殿


願掛け時に12個のどろ団子を奉納し、満願成就の暁には米の団子を12個供える

願掛け時に12個のどろ団子を奉納し、満願成就の暁には米の団子を12個供える


石床神社旧社地には巨大な陰石がありますよ。船山神社が男性なら、こちらは女性です。
石床神社旧社地の鳥居と巨大な陰石

石床神社旧社地の鳥居と巨大な陰石

このエリアは大きな公園やショッピングモールがあるので、お手洗いに不自由しません。
食事処は生駒に比べると少ないですが、それでも竜田川駅の近くにしゃれたイタリアンのレストランがあり、そこでランチを食べました。

竜田川駅付近のイタリアンレストランにて

竜田川駅付近のイタリアンレストランにて


食事はおいしく、手作りのかわいい小物を売っていたりと、人におすすめしたいレストランでした。

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