添乗報告記●イラン西部~トルコ東部 アララト山麓の峠を越えて東アナトリアへ12日間(2023年7月)

実はこのツアーは、2019年年末に企画。2020年夏の出発予定で募集を始めていたツアーでした。しかしコロナ禍で先送り、先送りで、やっと2023年夏催行することができました。2020年からお待ちいただいていたお客様もいらっしゃいました。うれしいことに、私にとってもお客様にとっても待望のツアーでした。

《2023年度の日程》
1日目:深夜:成田発
2日目:(ドバイ乗継)⇒午前:テヘラン着⇒オールミーイェ
3日目:オールミーイェ⇒マラーゲ⇒タブリーズ
4日目:タブリーズ⇒黒の教会⇒マークー
5日目:マークー⇒(国境)⇒ドゥバヤジット⇒カルス
6日目:カルス⇒アニ⇒エルズルム
7日目:エルズルム⇒アフラット⇒タトワン
8日目:タトワン⇒アクダマル島⇒ワン城⇒タトワン
9日目:タトワン⇒ネムルート山
10日目:ネムルート山⇒イスタンブール
11日目:イスタンブール⇒(ドバイ乗継)
12日目:午後:成田着

緊張のイラン入り

飛行機は早朝ドバイを飛び立ち、テヘランに到着しました。女性の参加者はスカーフで髪の毛を隠すようにかぶって入国審査へ。イランについては、日本国内であまりいい報道を聞かないので入国審査も身構えていましたが、「え?これで終わり?」というほどいあっけなく終了。荷物もスムーズに出てきて、ガイドとの合流も難なくできました。
降り立ったテヘランは、熱い暑いと悲鳴を上げていた日本にも負けず劣らずの暑さ(40℃)でしたが、私たちはそのまま国内線空港へ移動し、 国内線で西北西方面約700㎞に位置するオールミーイェ湖(ウルミエ湖)へと飛ぶので少しはこの暑さはまぎれるはず。少しの辛抱です。

ウルミエ湖

飛行機から今日降り立つ予定のウルミエの近くにある湖が見えました。機窓から見えたその湖は気味が悪いくらいに赤く濁っていました。

赤く染まったウルミエ湖

赤く染まったウルミエ湖

ウルミエ湖はイラン最大の塩湖で、その名前はアッシリアの時代までさかのぼるそうです。それがパーレビ王朝時代、王の名前レザーをとって、レザーイエ湖と変更されました。そしてホメイニ師によるイラン革命後、再びウルミエ湖に戻されたという経緯があります。かつては大きな湖でしたが、流れ込む川の減少等でアラル海同様縮小しています。それと同時に湖が赤く変色する事象が見られるようになりました。バクテリアや藻の繁殖などが原因と言われています。湖がなくなる前に見れたらラッキーと、思っていましたが、飛行機からその姿を拝むことができました。

ウルミエ湖の泥がある病気に効くとかで泥を塗りたくる人もいました。ここの塩は有名で海外にも輸出されてるそうです。赤い色をした塩を記念に買って帰りました。

ウルミエ湖の塩

ウルミエ湖の塩


ウルミエ湖は東アゼルバイジャン州の中心地タブリーズと西アゼルバイジャン州の中心地ウルミエを結ぶルート上にあり、航路を持っていました。「昔は船でよく通ったもんだ」とガイドさんの親類が語っていたそうです。湖の縮小に伴ってか、2008年ごろ湖に橋が架けられました。最近縮小しているとはいえ、琵琶湖の7,8倍あるウルミエ湖の対岸に行くには車だと相当の時間が必要だったはず。橋ができて交通の便が格段によくなりました。私たちもその橋を渡って明日タブリーズへ向かいます。

世界最先端の学術・技術の地マラーゲ(当時)

翌日訪れたのはマラーゲ。目の前に現れたのは、真っ白な巨大半球体。昔大阪万博でこんなパビリオンを見たような・・・。

マラーゲの天文(外観)

マラーゲの天文(外観)

ここは、一代でユーラシア大陸にまたがるモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンの孫、元朝の始祖フビライ・ハンの弟にあたるフラグが、西アジアに建国したイルハン朝(13世紀)に、侵略した国々から有能な学者を集め、天文台を作り、天体を観測させた地。その天文台の一部が残されているとのことで訪問。残されているのは、当時の天文台施設のほんの一部ですが、かつてここには、天体の移動を測定するための巨大な装置(四分儀とか六分儀とか?)が建設され、日々あるいは夜な夜なその膨大なデータが天文表として記録され出版されたと。その精度が高かったことから、後世、ティムール帝国のウルベク天文台に引き継がれ、あるいはビザンチン帝国の学者に持ち帰られ、それがヨーロッパに渡り、コペルニクスの地動説に結び付いたともいわれる偉大な天文台なのでした。見ただけでは意味が分からず「え、何?」となる遺跡ですが、話を聞くと、歴史的価値がとてもとても高い遺跡だったのです。来た甲斐があったというものです。

マラーゲ天文台の遺構 四分儀の一部が残っている

マラーゲ天文台の遺構 四分儀の一部が残っている

マラーゲの近くにはケバブ(もしくはその調理道具?)で有名な町があり、そこで名物のボナーブケバブを昼食でいただくことに。入ったのは、レストランというよりは食堂。おじさんのミンチを刻む包丁に注目!おじさんが握る(?)ケバブは絶品で、お客さんはひっきりなし。さあおなかが膨れたところで目指すはイラン第6の都市、イルハン朝の都タブリーズです。

マラーゲ郊外にある名産のケバブを刻む店主

マラーゲ郊外にある名産のケバブを刻む店主

商都タブリーズ

遠くから赤い山が見えてきました。タブリーズが近くなった証です。商売上手のユダヤ人も一目おくという商都タブリーズ。イランにあってトルコ系の言語アゼリー語を操る人も多い町。タブリーズのバザールはマルコポーロやイブン・バツータも訪れたといわれるほど歴史のある場所。規模も大きく世界最大かもしれません。それもそのはず、タブリーズは大国トルコやヨーロッパに最も近い場所に位置しています。海外の文化が最初に入ってくる場所。最先端の文化を取り入れるに有利な場所に、敏な人々が暮らしていたのです。バザールの中は迷路。なかなか一人では目的の場所にたどり着けず、たどり着いても今度は戻れないほど複雑です。

赤い山肌がきれいなイラン北部の道

赤い山肌がきれいなイラン北部の道


マルコポーロも訪れたと言われるタブリーズのバザール

マルコポーロも訪れたと言われるタブリーズのバザール


トルコ石などもいっぱいのタブリーズのバザール

トルコ石などもいっぱいのタブリーズのバザール

絨毯の刺繍で描かれた絵画(タブリーズのバザールにて)

絨毯の刺繍で描かれた絵画(タブリーズのバザールにて)


今回はお客様の希望で、貴金属の売り場と布の売り場を訪れました。貴金属売り場にはトルコ石もありました。私は初めて知ったのですが、トルコ石はトルコでは産出しないそうで、歴史的に有名なのはイラン産のトルコ石だとか。イラン東部に大きな鉱山があり、品質もいいそうです。トルコの商人を介してヨーロッパに広まったためそのように呼ばれているとか。もしかしたらタブリーズのトルコ系民族がその一端を担っていたかもしれませんね。絨毯を額にあしらった売り場ものぞいてみましたが、絵画とみまがう出来栄えに絨毯王国の真骨頂を見た気がしました。

タブリーズを出た私たちは途中、シルクロード交易盛んなりし頃、一定間隔で設けられていたというキャラバンサライに立ち寄りました。現存するものはそれほど多くないようですが、ここは現在ホテルとして利用されているとのこと。

キャラバンサライを利用したホテル(タブリーズ郊外にて)

キャラバンサライを利用したホテル(タブリーズ郊外にて)

黒の教会

イランの幹線道路はきれいな高速道路のような道です。しばらくその道を北西に向かって走り、途中から支線へと入っていきました。風景も田舎らしいものに変わり、さわやかな風が吹く、波打つ平原地帯にやってきました。気持ちよさそうな場所と思っていましたが、過去このあたりはオスマントルコとサファヴィー朝ペルシアの間ですさまじい戦いがあった場所だそうで、このあたりには死体の山が築かれていたそう。私たちが目指す教会はこの先にあります。

ペルシアとトルコの戦いが繰り広げられたという平原(イラン領)

ペルシアとトルコの戦いが繰り広げられたという平原(イラン領)

イランにあるアルメニア正教会・聖タデウス教会

イランにあるアルメニア正教会・聖タデウス教会

イランにあるアルメニア正教会・聖タデウス教会

イランにあるアルメニア正教会・聖タデウス教会

イランの地にあるアルメニア正教会。キリスト教の教会です。イラン革命後、原理主義的な志向がきわだつイランにあって、異教徒の存在自体、少し不思議な感じがしますが、国土の広いイランは多民族国家。特に辺境地域には古い文化が残っている気がします。政府もある程度宗教に応じて柔軟に対応しているところがあるようです。 この日はお祭りだったようで、厳格なイランにあって少し開放的な時間が流れていました。 キリスト教の創成期、古代アルメニア地方に宣教した聖タデウスを祀った教会。創設は1世紀にさかのぼるともいわれ、当時は黒い石材で作られたのでこの名があるそうです。今は建築内の一部に黒い石が使われています。黒一色でないデザインも素敵ですが、黒一色だった姿も見てみたい気がしますね。当日はお祭りと重なっていて見学が危ぶまれていましたが、イランの人は親切でした。おかげで、しっかり見学することができました。

アララト山はどこの山?

イラン側から見た大アララット山と小アララット山

イラン側から見た大アララト山と小アララト山


イラン、トルコ、そしてアルメニア3か国の国境に位置するアララト山。ノアの箱舟が漂着した地として伝説に名を残す山で、日本の富士山にも似た、美しいそのシルエットと相まって人気の山です。イラン・トルコ国境に来たからには、ぜひ拝みたい風景。しかし雲に隠れることも多くこればかりは天に祈るしかありません。黒の教会を後に、国境手前の町マークーに向かう道中でドライバーさんは展望ポイントに案内してくれました。大アララトと小アララト。相似形の2つの山が居並ぶ、伝説の地にしたくなる山姿でした。これだけ美しいと我が国のものにしたくなる気持ちもわかります。このあたりはローマVSペルシャ、トルコVSペルシャが激しい戦闘を繰り返していた地。実際、アルメニアとトルコは古くからその領有権を争ってきました。現在トルコ領に位置するアララトですが、今もアルメニア人は心のふるさととしてアララト山を崇めています。キリスト教国アルメニアにとって旧約聖書に語られる聖地だからというのもあるでしょう。その点、意外にもイランはあっさりしてと感じました。ベテランのガイド氏もアララト山はアルメニア領と思い込んでいた様子。山男の彼はアララト登山のベースキャンプがアルメニアにあるため、そう思い込んでいたとか。イスラム教徒には、そこまでアララト山への執着はないのかもしれませんね。(個人的感想です)

トルコへの国境越え

イランからトルコへ。ドキドキの国境越えです。

イラン側からトルコへの国境を望む

イラン側からトルコへの国境を望む


イラン側から見ると国境は小高い丘の上にありました。麓から見上げるとそこまで大型トラックの列が続いています。2か国間の交易が盛んだというのがわかります。そういえば昨日も、道中トルコナンバーのトラックと何台も行き違いました。国境では声をかけてくる両替屋さんを後目に、まっすぐイミグレーションへ向かいます。そうのんびりする暇は残念ながらないのです。すでに列(人だかり)ができていて、かなりの時間を要することが予想されました。トイレを済ませ臨戦態勢に備えます。どうすればこれだけ進まずにいられるのか不思議なくらい時間を要してイラン側のパスポートコントロールと通過。しかし、国境のゲートで時間調整をしているようで、ここでまた長い時間待たされました。ようやくイラン側の扉を抜けトルコ側に入りましたが、こちらものんびり(もしかしたら”しっかり”)と入国審査をしているので、ここでも時間がかかります。気長にやり過ごしつつ、ようやくトルコ入り。国境越えに2時間半使っていました。
ともあれ、全員問題なくトルコ入国。これでお酒は解禁です。トルコ側には免税店があり、さっそくガラスケースのビールをのぞき込む人も・・・。

ドゥバヤジット

アララト山が眺めながらのランチ

アララト山が眺めながらのランチ

イサク・パシャ宮殿(ドゥバヤジット)

イサク・パシャ宮殿(ドゥバヤジット)


トルコ側の国境の町。まずは腹ごしらえ。アララト山を眺めながらランチが楽しめるレストランに。この日は天気もよく風が気持ちいい。テラスなので窓ガラスもなく聖山アララトをたらふく満喫できるロケーションだ。トルコ料理も楽しんだ後は、町を見下ろす高台にあるイサク・パシャ宮殿へ。一地方の領主の宮殿なのだが立派です。ハーレムまである。1685年から99年かけてにクルド人の領主が当時のペルシャとの国境にあったこの地に建てたというが、当時オスマン帝国の衰退期。この力を見せつけるような宮殿はペルシャに向けてのものだったのか、イスタンブールに向けてのものだったのか?徳川末期の薩摩藩のように密貿易で力をつけていたのかも、、なんて想像も膨らみます。

トルコ変更地帯を進む

ドゥバヤジットのスターバックス?

ドゥバヤジットのスターバックス?


ドゥバヤジットを後に、アララト山の西側を通って、私たちは北西に車を進めました。小アララトは大アララトに隠れて見えなくなりましたが、アララトの雄姿も見納めというあたりに、怪しいお店を発見!「スターバックス ドゥバヤジット店!?」明らかに偽物です。しかし、ここはスターバックス本家のサイトでも紹介されたようで、偽物のお墨付き?。せっかくなので一服。ここでは苦いコーヒーに代わってチャイを提供していました。

カルス

カルスの重厚な作りのホテル

カルスの重厚な作りのホテル

男性の衣装はコーカサスのそれと似ていました(カルスにて)

男性の衣装はコーカサスのそれと似ていました(カルスにて)


目指すはアルメニア国境にも近いカルスの町。ガイドさんの話では、向こうに見えてる山はアルメニア領だそうです。町を見下ろす位置に岩城があり、過去、ロシアに占領されていた歴史もあり、ロシアの軍関係の頑丈な建物がいまはホテルやレストランに利用されたりしているから複雑な場所です。私たちが泊まったお城のふもとにあるホテルも帝政ロシア時代の建物だったらしく重厚で階段なども風情のあるものでした。夜には伝統的な音楽と踊りを見せてもらいました。男性の衣装はジョージアで見た民族衣装にも似て(ナウシカの戦闘服にも似ています)、コーカサスとの地理的、歴史的なつながりをじんわりと感じたショーでした。アルメニア?、ロシア?、ジョージア?今私たちはいったいどこにいるんだっけ?国境の意味、国の意味が混とんとしてきます。でも、それもこの度のだいご味かもしれません。

世界遺産・アニ

今日は世界遺産の見学です。西暦301年世界で最初にキリスト教を国教とした古代アルメニアが5世紀滅亡すると、9世紀半ばに、東ローマ帝国とアッバース朝が勢力をしのぎあっていたこの地域にバグラト朝アルメニアが再興しました。10世紀後半から11世紀にはヨーロッパとアジアを結ぶ交易都市として栄え、「40の門がある都市」「1001つの教会がある都」と呼ばれ、アルメニア正教会の総本山もここに置かれます。この時にたくさんのアルメニア正教会が建てられたとのこと。11世紀にセルジュークトルコの侵略を受けますが、12世紀にはグルジアの庇護下で復興。再び多くの教会が建てられ、シルクロードの拠点として発展したそうです。その後、モンゴル、ティムールなどの攻撃を受け、1441年にはアルメニア正教会の総本山は現在のアルメニアのエレヴァンに移され、町も次第に衰退、放棄されることになりました、そんな町の遺跡です。今もいくつかの遺構が残っているのと、外敵からの侵略を物語る頑丈な城壁、そして、すぐそばを流れる川の対岸が国交と絶っているアルメニアであること、その川にかつての交易路の一部であった橋の遺構があることなど、シルクロードを感じるにふさわしい遺跡です。ゆっくり堪能いたしました。

アニ遺跡

アニ遺跡

アニ遺跡

アニ遺跡

下に見える川の向こうはアルメニア領(アニ遺跡)

下に見える川の向こうはアルメニア領(アニ遺跡)

アニ遺跡

アニ遺跡

エルズルムの建築群

エルズルムにはイルハン朝(1260~1357年)時代に建てられた立派な建築物が残されてます。そのいくつかを見学しました。イルハン朝はモンゴル帝国から分かれたモンゴル族の国ですから元は仏教中心だったのですが13世紀末にはイスラム教に改宗したそうです。

イルハン朝時代の霊廟キュンベット
アニで見たアルメニア正教会の教会の屋根の形が似ています。アルメニア、ローマ、ペルシアなどあちこちの建築物いいとこどりをして作ったとか。神学校に隣接しているのはその人にあやかって建てられたそうです。

キュンベット(エルズルム)

キュンベット(エルズルム)

チフテ・ミナーレ神学校
チフテ・ミナーレは、2本のミナレットの意味だそうですが、その色あいが素敵です。またそれを支える門に施された彫刻の細やかなこと!トルコの人もたくさん観光に来てました。

チフテ・ミナーレのミナーレ(エルズルム)

チフテ・ミナーレのミナーレ(エルズルム)

ヤクティエ神学校
これもイルハン朝時代の神学校ですが、ミナレットが1本のアンバランスさが特徴。なぜ1本か説はいくつあるようです。このミナレットの色あいも日本人の感覚にはない色合わせに思えて目を引きます。

ヤクティエ神学校(エルズルム)

ヤクティエ神学校(エルズルム)

この日は戦勝記念日とかで、急遽市内の道路が閉鎖され、私たちの荷物を載せた車がホテルにたどり着けない事件がありましたが、運転手さんの機転で少し遅れましたが無事到着してくれました。

チョバンデデ橋

チョバンデデ橋はシルクロードに続く

チョバンデデ橋はシルクロードに続く


今日は長い移動があります。車が街を出るとガイド氏が早速見てほしい橋がある、と車を止めました。立派な石橋です。流れているのはアラス川、どこかで聞いた名前だと思ったら、シルクロード大走破の第5弾で、以前、イランからアゼルバイジャンに抜ける時に、国境になっていた川でした。その時はカスピ海に注ぐ川の最後の部分を見たのですが、その上流がトルコを流れていました。橋はまっすぐ南東の方向に道が伸びていました。イランのタブリーズやバグダッドへ続くのか?。シルクロードの一部となって交易を支え続けて来たのでしょう。歴史を感じます。
橋の足下部分に、エルズルムで見たキュンベットのような三角錐の屋根を縦に半分に割ったような柱があしらわれていました。

ケバブが美味しい店で昼食を取った後、出発!出発してすぐに橋を渡ったのですが、ガイド氏曰く、こちらがユーフラテス川です。おーと声が上がり、写真ストップに。ただ、そこは工事中の街の真ん中。メソポタミア文明の悠久の歴史の流れの感慨にはひたれませんでした。

トルコの道路、特に都市を結ぶ道路はかなり良いと思います。東部方面も片道2車線の快適な道が、網の目のように走っていて長旅も疲れにくい。覚悟していた移動も移り変わる風景、街中の人々の動きを目で追ってるうちに時間が過ぎて、前方に青く広い湖が見えて来ました。

ワン湖

山麓に岩城が立つワン湖の風景

山麓に岩城が立つワン湖の風景


ワン湖です。紀元前この辺り一帯を支配していたウラルトゥ(アララト)王国の時代の城壁跡などもある。見晴らしのいいところで小休止。広い湖だ。海と呼ばれているのも納得。これだけ大きいと何か謎の生物が住んでいる、住んでいてほしいと思ってしまいます。実際、30年ほど前、ネッシーばりの巨大生物の写真が出回ったそうですが、その後ぱったり聞かなくなったそうです。残念。今日も天気がよかったので、みなさん、ちょうどやっていたアイスクリーム屋さんに直行。そういえばトルコはアイスでも有名でした。店員さんのノリもよく飛ぶように売れてました。
ワン湖のアイスクリーム屋さんにて

ワン湖のアイスクリーム屋さんにて

アフラットの墓石群

細かい彫刻のアフラットの墓石

細かい彫刻のアフラットの墓石

林立する墓石(アフラット)

林立する墓石(アフラット)

セルジューク時代まで遡るアフラットの墓石軍

セルジューク時代まで遡るアフラットの墓石軍


さて、次に訪れたのはアフラット。セルジューク朝時代の墓碑が林立する光景が印象的な場所です。トルコ遊牧系イスラム王朝セルジューク朝は中央アジアから勢力を拡大し、1071年に東ローマ帝国を破り、東トルコまで支配を強めました。その支配下のひとつシャーアーメンス王国が都をおいたのがここアフラット。アーメンスとはアルメニアのことらしく、ここがもともとアルメニアの支配地域だったことを表してます。12初頭~16世紀にさかのぼる墓もあるとのこと。その数9,000とか。そして石碑の半分は地下に埋められてるというから本来はどんだけでかいんだ!?祖先が東から来たということで墓碑は東向きに建てられており、東面に死者の名前や経歴が彫られているそうです。アルメニアにはハチュカルという細かい彫刻を施した石碑があったのを思い出しました。支配者は変わっても、その文化が受け継がれたのだろうか、それとも、何か源となる文化があって、そこから2つの地域(アルメニアとアナトリア)でそれぞれの形で開花したのだろうか。ひとつは十字架の形で、もうひとつはコーランを刻む形で。

アクダマル島

アクダマル島のアルメニア教会

アクダマル島のアルメニア教会


アクダマル島のアルメニア正教会(内部)

アクダマル島のアルメニア正教会(内部)


今日は、ワン湖に面した街で連泊し、ワン湖周辺をめぐりました。まず最初は、ワン湖に浮かぶ小さな島アクダマル島にある教会。起源は10世紀にさかのぼるそうです。湖の島にあったため壊滅的な破壊を免れたのだろうと思っていたら、近世、外壁のレリーフは射撃の的に使われていたりとか、当局によって破壊される直前までいったそうです。現在は修復も進んでアルメニア教会らしいいスリムな美しいシルエットと、レリーフも見どころのひとつとなっています。上からみると十字をしている聖十字教会はその創建当時からある建物だそうで、外壁には旧約聖書の物語を表すレリーフがいくつも彫られています。アダムとイブ、ダビデとゴリアットの巨人、ダニエルとライオン、ヨナのニネヴェ行きの説話など。また、最初に信者になった3人(アンデレ、ヨハネ、ペテロ?)や福音書を書いた4人の聖人や、セルフィム(6枚の翼をもった最上位の天使)も描かれていたり。ちなみにたくさん描かれてるぶどうはキリスト教の信者を表しているそうです。
内部にも入れます。がっちりした石組の建築で、歴史を感じます。その壁画はずいぶん色あせたりしてしまっていますが、青と若干の赤の塗料が残っており、中国の千仏洞を見ているような錯覚に陥りました。同じ宗教の秘めた力でしょうか。

チャウシュテペ遺跡

チャウシュテペ遺跡(ワン湖周辺)

チャウシュテペ遺跡(ワン湖周辺)

楔形文字が彫られたペンダントなど

楔形文字が彫られたペンダントなど


ウラルトゥ王国は、紀元前9~6世紀 東トルコヴァン湖周辺を中心に存在した王国。東部アナトリアからコーカサス、イラン北西部までを約200年に渡って支配した国。ウラルトゥはアッシリア語で「高いところ」の意味で、アララトと同一とも言われているそうで、アララト山を考えるとその意味も納得です。チャウシュテペ遺跡は、ウラルトゥ王国の最盛期(紀元前750年頃)サルドリー2世が建てたという山城。城壁跡、住居跡、神殿跡、宮殿跡などがある。風の神や水の神など1,000もの神様の中の最高神がハルディ(戦いの神)。神に毎日多くの羊の血をささげたとのこと。楔形文字が使われていて54文字のアルファベットを使っていたそうですが、現在もウラルトゥ語が話せる人がごく少数ですがいるそうです。丘の上は風が強いですが見晴らしがよく、神殿と宮殿を結ぶ道も大きな岩を削って作られたようで王の力と神への畏敬の念を感じることができました。神様の名前を楔形文字で彫ったペンダントなどがお土産で売ってましたが、これはお勧めです!

ワン城

威厳ある岩城ワン城

威厳ある岩城ワン城


紀元前9世紀、サルドリー1世が建てたウラルトゥ王国の居城であり、都として機能してた要塞です。上からはワン湖を見下ろすことができる岩城で、宮殿、寺院、神殿などがあるとともに、王族の墓もあります。王国衰退後は、ペルシアやオスマントルコが要塞として増築して今に至っています。湖から見上げて左から右の方へ時代が新しくなっていくようだ。入口から上部までは結構な坂が続き、片道30分はかかります。チャウシュテペと比べると、後世に増築されてることもあり、城壁などがしっかり残っていて、上まで行かずとも、少し登ったあたりからでも絵になります。

チグリスだ!ユーフラテスだ!

朝いちばん、ガイド氏から「今日はまた長い移動です。途中、チグリス川とユーフラテス川を渡ります」との案内がありました。チグリス、ユーフラテスといえば中学校で習ったメソポタミア文明の源をなった川。イラクあたりを流れているはずだから、このご時世お目にかかれるなんて思ってもいませんでした。それがトルコで目の当たりにできるとは!それは見逃せまい!途中、きゅうりの名産地、くるみの名産地などを通過し、いよいよチグリスを渡った。チグリスはシュメール語で「速い流れ」という意味から来てるそうですが、「虎」とも関係があるとの説も。いずれにしてもどう猛に荒れ狂う大河だったのでしょう。チグリス川は、ここから南東へ流れ、トルコとシリアの国境を形成しながらイラクへ流れ、ペルシア湾に注ぐ。続いて、ユーフラテス川を渡ってランチタイム。「ユーフラテスの向こうはローマだです」とガイド氏はいう。今は私たちはトルコというひとつの国の中を走っていますが、ユーフラテス川がペルシアと東ローマを分かつ境界線だった時代があったのだ。ユーフラテス川は、ここから大きなダム湖を経て、シリア中部を通り、同じくイラク、ペルシア湾へと注ぐ。この二つの川の下流域で世界三大文明のひとつが誕生したのかと思うと、ワクワクしてきます。

あれはユーフラテス川か!?

あれはユーフラテス川か!?

知られざる王国コンマゲネ

チグリス、ユーフラテスという歴史に名を残す大河を越えてやってきたのは、聞きなれない王国の聖地。その名もコンマゲネ王国。
紀元前323年、アレキサンダー大王が打ち立てた大帝国も大王の死後、3つの国に分裂。そのひとつセレウコス朝シリアのサトラップ(総督一地方長官)のひとりが、紀元前163年独立を宣言します。彼はアケメネス朝ペルシア時代からの総督の家系でペルシア王家の血を引いていたようで、彼の息子はセレウコス朝の王女を妻に迎え、ペルシア(アケメネス朝)とギリシャ(セレウコス朝)の文化の継承者として名乗りを上げます。時に、東にパルティアが勢力を拡大、北に大アルメニア、西では旧宗主セレウコス朝、そしてローマがそこに上陸、小アジア半島まで支配下に置き始めた時代でした。コンマゲネ王国はその緩衝国として紀元17年、ローマの属州になるまで独立を保ったと。地図で見ると小さな王国なのですが、最盛期の王アンティオコス1世は、東トルコのネムルート山の山頂に墳墓を築き、神々に守らせたのでした。

カラクシュ

カラクシュに残る石柱

カラクシュに残る石柱


そのアンティオコス1世の墳墓の前に、ひとつコンマゲネ王国の遺跡に立ち寄りました。こちらもお墓。アンティオコス1世の後継者ミトラダデス2世の母親(※)、姉、姪の墳墓と言われています。(※ガイド氏はアンティオコス1世の奥さんと説明したいた気がしますが真偽は不明)元は、墳墓の3方向に3本ずつ石柱が立っていて、その上にワシや牛やライオンなどが乗っていたそうです。今は、寂しいことにその一部が残るのみ。そのうち1本は、今年の2月の地震で崩れて、積みなおされたそうです。

ローマ時代の石橋

ローマ時代建築のジェンデレ橋

ローマ時代建築のジェンデレ橋


続いて、ネムルート山に向かう途中にローマ時代の立派な石橋に立ち寄りました。今も現役の橋で、新婚さんが記念撮影にくる名所になっていました。とても深い渓谷の入口に建てられた橋で、その高さは足がすくむほど。ローマ時代の技術に脱帽です。暑い日でしたので、橋の下では、車を川に乗り入れたり、川の中にデッキチェアを置き、缶ビールを楽しんでる人がいたりと、ゆるやかなトルコらしい風景を眺めることができました。これらの石材の一部は、さきほど見たカラクシュの石柱から略奪されてきたものだそうです。ローマの技術には敬意を表しつつも、どこか腹立たしさも残る橋でした。

ネムルート山の神殿へ

さて、いよいよ、ネムルート山です。この地域では一番高い山(約2,150m)です。ここに墳墓を作ろうとした王の気持ちは理解できますが、車で延々を坂道を登っていくにつれ、動員された人たちにとっては、とてつもなく過酷な大事業だったことでしょう。
車は駐車場に止まりました。ここからは歩いて山頂をめざします。道は明瞭で、歩きやすいです。標高差約100m。ゆっくり歩いて約30分でした。夕日に間に合うようにと思いましたが、間に合いました。まだ日没まで時間が少しあったのですが、その間風が強くて寒い!7月中旬でもフリース+ゴアの雨合羽があっていいくらいでした。

夕日を浴びたネムルート山頂にある神殿

夕日を浴びたネムルート山頂にある神殿


ここには、ギリシャの神々(アポロン、ゼウス、ヘラクレス)とコンマゲネの神(神格化したアンティオコス1世と女神テュケ)そして、ワシとライオンの神の座像がありました。テュケはコンマゲネの守護神。しかし、アポロンもゼウスもヘラクレスもギリシャのそれと少し違うようです。当時のギリシャ風ではない三角状の帽子(フリギア帽)をかぶっています。ペルシャ人やスキタイ人がその帽子で描かれてることがあるように東の文化です。また、神像もギリシャの神そのものではなく、ゼウスはゾロアスター教のアフラマズダと混合した神として、アポロンもゾロアスターのミトラス神と混合したものとして作られたとのこと。アンティオコス1世はゾロアスター教を深く信仰していたといわれています。そして、神々を守護するワシとライオンもペルシアのペルセポリスにたくさん描かれ、彫られていた動物。まさにギリシャ文化とペルシア文化の継承者の王だったと思いました。
朝日を浴びたネムルート山頂にある神殿

朝日を浴びたネムルート山頂にある神殿

山頂は美しい三角錐を形成していますが、実はこれは人工の山頂(墳墓)。この中に王の墓が眠っていると言われています。以前発掘をしようとしたが、細かい砂利でおおわれているため、掘っても掘っても上から砂利が落ちてくるので発掘をあきらめたという話を聞きました。王の墓はむやみに掘り返すなということでしょう。その後、この地域を支配下に置いたローマは、神殿を破壊、木材などを略奪したそうです。地震のため、美しく並んでいたであろう王や神たちの座像は崩れ、首がごろんと足元に転がっている状態。これがかえって神々しさを増している気もします。
この場所にたどり着くまで多少の山を登る必要がありますが、その価値のある場所です。山頂からはユーフラテス川をせき止めて作った巨大ダム湖も一望。遠すぎてクリアではないが、遠くには彼の奥さん(?)や娘たちを埋葬したという墳墓カラコシュも見える(はず)。

夕日に染まる神々の像を拝んだあと無事下山。ロッジに到着したころにはもう真っ暗でした。程よい疲れでみなさんお酒もおいしそうでした。

いよいよイスタンブールへ

今日はついにアジアとヨーロッパの接点・文明の十字路イスタンブールです。国内線でイスタンブールに入ります。イスタンブールは国家の威信をかけた新空港がオープンし、とても立派で、とても快適です。久々に大都会にやってきた感があります。

車は、市内に直接向かわず、ボスポラス海峡の北端に近い海の見えるレストランに案内されました。遠くに見える橋がアジアをヨーロッパを結ぶ3つめの橋だそうで、その向こうはもうすぐ黒海とのこと。海の幸をいただきながら、ここまで来た感慨にしばしふけります。

ボスポラス海峡にかかる橋

ボスポラス海峡にかかる橋


おいしい魚料理をいただきました

おいしい魚料理をいただきました


おいしい夕食の後は、うわさに聞いていた市内の大渋滞に閉口しつつホテルに到着しました。
イスタンブールのホテルからの1枚

イスタンブールのホテルからの1枚

旅の終わり

旅の最後はイスタンブール観光です。定番というより必須のブルーモスクとアヤソフィアです。東トルコでの観光には渋滞や行列はなかったのですが、ここにきて現世に戻ってきた感じです。

アヤソフィアは、元々キリスト教教会をモスクに改造したもので、その数奇なそして壮大な歴史そしてその豪華な建築資材に圧倒されるのですが、話を聞くと、柱などは、戦利品として持ち帰った過去どこかの宮殿であったりして、ちょっと複雑にもなります。栄華とはそういうものだったのでしょう。

アヤソフィア(イスタンブール)

アヤソフィア(イスタンブール)

アヤソフィアにて

アヤソフィアにて

ブルーモスクは、アヤソフィアをまねて作ったと言われますが、白と青のタイルが内装を清楚にそして美しく飾っています。トルコ民族発祥の地(アジア草原地帯)を崇めて、東の守り神・青龍にちなんで青を基調にしたとも聞きました。

ブルーモスク(イスタンブール)

ブルーモスク(イスタンブール)

ブルーモスクの天井を見上げて

ブルーモスクの天井を見上げて

最後に訪れたのがグランドバザール。中東最大級と言われるだけあって広い。屋根付きの巨大バザール(約300m四方)で、入口にあたる門が21か所あり、その中をたくさんの路地が走っています。陶器、タイル、革製品、貴金属、ランプ、香辛料、ドライフルーツなどなど。お土産物色には事欠かない場所ですが、買い物に気を取られているとついつい迷子になってしまうので気をつけましょう。今回はみなさん無事集合時間に集合場所に無事戻ってこられました。

イスタンブール グランドバザールにて

イスタンブール グランドバザールにて

イスタンブール グランドバザールにて

イスタンブール グランドバザールにて

その午後、空港へ向かい、空路、日本へと戻ってまいりました。長いようで、終わってみれば短い充実の12日間でした。

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