小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
朝6時、ヒマラヤの冷たい空気に頬を撫でられて目を覚ました。テントの中ではまだ誰も起きていない。連日の薬草採集で疲れ果 てているのは自分だけではないようだ。近くの清流で顔を洗い、振り向くと朝靄のむこうにヒマラヤの山々が朝日で照らし出されている。今日は何の薬草を採りにいくのだろう・・・。
チベット医学暦法大学では毎年8月になるとヒマラヤ山中にベースキャンプを張り20日間に渡って薬草実習が行われる。しかし実際には薬の材料となる薬草を採取する「仕事」の意味合いが遥かに強く、事実チベット語では実習と呼ばれていない。それはまさに生きることと薬学とが直結し、医師や薬剤師がまだ大地との絆を深く保っていたころの姿を今に留めているともいえる。チベット医学生は全員がこの世界一過酷な医学実習を乗り切り、たくましいチベット医(アムチ)へと生まれ変わるのであるが、これこそチベット医学の神秘と呼ぶに相応しい。
朝7時、男はツェルゴン(ケシ科)を、女はアワ(ユリ科)を採取するよう指示がだされ、いつものように親友のジグメと真っ先にベースキャンプを飛び出した。基本的に採集は生徒の判断に任されているが、万が一のこともあるので単独行動は禁止されている。思えばジグメとは何度も修羅場をくぐり抜けてきた。
「オガワ逃げろ!」の叫び声に顔を上げると大きな落石が向かってきていた。猟犬に襲われたときは彼が闘志を剥き出しにして逆に向かっていくと、犬は萎縮して逃げ出してしまった。5歳まで車も見たことがなかったというチベットの辺境の地で遊牧民の末っ子として生まれ育ったジグメの生きる強さに感服したのは一度や二度ではない。僕の目の前で斜面を滑り落ち、絶体絶命の時も彼は大地を鷲掴みにして断崖絶壁の直前で踏みとどまった。8歳で出家して以来、家族とは会っていないという彼は僕には理解できないであろう寂しさを背負い生きている。だからなのか、外国人としてチベット人に混じっている僕にさり気ない優しさと気遣いを見せてくれる。
タンクン(セリ科)を採取した帰り道、下山ルートを間違えて遭難したときは、もう一度尾根まで高度を上げるか、強引に下へ向かうかで激しい口論となった。朝出発してから飲まず食わずで山中を彷徨い続け、もうすぐ日が暮れようとしている。二人とも焦りから苛立っていた。生まれて初めて「死」を意識しながらも背中に背負った薬草だけは決して捨てようとしなかったのはまだ希望を失っていなかったからだろう。こうしてヒマラヤの薬草にはチベット医たちの汗と苦労と勇気が込められて霊験新たかとなっていく。だが現実には今まで多くの生徒が崖から転落し大怪我を負うなど、血と涙も含まれていることを忘れてはいけない。
希薄な空気の中、足早にツェルゴンの群生地を目指す。標高4千mを超えた岩場に差しかかったところで本格的な採集作業に入った。全身に棘のあるツェルゴンを丁寧に引き抜いて袋に入れると、また向こうに可憐な青い花が咲いている。一つ採ると、また向こうに一つ・・・。「おいで、おいで、こっちだよ」とツェルゴンの誘惑に乗せられて険しい岩場を登っていく。もしかしたら薬の神様は僕たちの勇気を試すためにこの花をお創りになられたのかもしれない。ヒマラヤンブルーポピーとして世界的に有名なツェル(棘)・ンゴン(青)を10キロ採取できて初めて、僕たちにはベースキャンプへ戻る権利が与えられ、チベット医への関門を一つクリアしたことになる。
将来、患者に薬を渡すとき、僕たちの脳裏にはいつもヒマラヤの大自然が浮かんでくるだろう。
夕方になると先生のテントには普段医者に診てもらえない多くの地元住民が訪れ、青空無料診療所が開設される。薬草を頂戴することへの恩返し。自ら薬草を採り、患者の脈に触れて診察するという医薬の原点を実践していることの崇高さをチベット人は自覚していない。チベット医は大地の薬草に始まり患者を癒すまでの一つの輪を全て知っている。それは仏教の世界観で捉えるならば「薬の縁起」を悟っていると呼ぶに相応しくないだろうか。
今から7年前にヒマラヤ薬草実習に憧れて遥か天上の国の医学を目指し、今、そこに身を置いていることに人生の不思議さを感じながら寝袋に入った。明日の朝も早い。