小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
もしも日本を代表する美食家、海原雄三がメンツィカンを訪れたとしたら‥‥。
「タシデレ!ようこそ、いらっしゃいました」ミスメンツィカンのソナムちゃんが満面の笑みで海原氏を出迎えた。
「ここで、究極のチベット料理を食べさせてくれるというので、わざわざ足を運んだが、いったい何を食べさせてくれるというのだ。まあ、所詮、料理の完成度という点においてトゥクパはラーメンに、モモは餃子に叶わないから、期待はしておらんがな。」(*)
「はい、ご期待に沿えないかもしれませんが精一杯務めさせていただきます。では、少々お待ち頂けますか」。そして、3分後、ソナムが長方形の薬包を大事そうに手にして現れ、それを海原氏のテーブルに置いたのである。
「お嬢さん、私をバカにしているのかね。これがチベットの究極の料理だというのか!どこからどう見てもただの丸薬ではないか」
薬包紙には直径2ミリで赤色の小さな丸薬が入っている。
「驚かれるのも無理はありませんが、まずは召し上がってください。これはマニ・リルプ(観音様の丸薬)という宗教薬で27種類の生薬と全チベット人が唱えた数え切れないほどのンガッ、つまり真言が配合してあります」
「なに、真言だと‥‥‥」
「はい、チベット歴の三月に生徒達によって実に18トンものマニ・リルプが調合され丸薬になりますが、この薬の秘密はここからなのです。丸薬は四月になると全てダライ・ラマ法王のお寺に運ばれ、一ヶ月間、昼夜を問わずお坊さんによってお祈りが行われるのです。それだけではなく、全てのチベット人がこの一ヶ月の間、「オム・マニ・ペメ・フム」と観音様の真言を唱え加持を与えることによって薬は霊験あらたかとなるのです。日本人の多くは無宗教だと聞いていますから、なかなか信じていただけないとは思いますが、私たちチベット人は一年間、マニ・リルプを保健薬として飲み続けるのです。おかしいですか?」
「まぁよい、信じる者は救われる、という諺が日本にはある。それに日本に古くから伝わる陀羅尼助(第32話参照)も真言を唱えながら製薬されたというから、何かしら関係があるのかもしれないな」
「それに、みんなの汗も含まれていますから、少し匂ったらごめんなさい。なにしろ丸薬に用いる薬草の多くは、私たちがヒマラヤを駆け巡って集めてくるのです。八月になると・・・」
すかさず海原氏が顔をしかめつつ手を差し出して言葉を遮った。
「その話はもういい。オガワという日本人学生がいるだろう。彼が連載しているエッセーの中でくどいほど薬草実習の苦労について語っているから、もう充分だ。まあ、しかし日本語で御馳走という単語は、馳せて走りまわって材料を調達してきたことに由来しているから、確かにチベット薬は究極の御馳走であるといえるだろうな。しかし、もう一つ、何か大事な隠し味があるであろう。なんだか、こう、頬がゆるみ、笑わないまでも、楽しさが込み上げてくるではないか。いったいどんな技術を施しているというのだ」
「フフフ‥‥、お分かりになりませんか。」ソナムはしてやったりの表情で、わざと海原氏をじらしている。
「ええい、この失礼な小娘が!さっさと答えぬか。」
「もう、日本の人は本当にせっかちなんだから。ではお教えしましょう。とびっきりの“楽しさ”が入っているんです」
「な、なんと、楽しさだと・・・」
「はい、そうです。マニ・リルプの主原料であるアルラ(第16話参照)の精製作業を一日中行うことがあるのですが、まあ、これがなんとも退屈な仕事なんです。そこで2時間も経過すると生徒同士でアルラの投げ合いが始ります。コツは方向を定めたあと下を向いたまま投げるとバレないですよ。こうして“無邪気な遊び心”という薬効が備わるのです。だから、ほら、チベットの人たちって、みんなのんびりしていて遊び心に溢れているでしょう。あっ、実際に投げているのは腐った部分や捨てる部分なので衛生面での心配はありませんからね」
「真言、汗ときて最後は楽しさ、か。日本語で薬という漢字は草と楽から出来ておる。なかなかいい“落ち”だったぞ。どれ、確かにチベットの究極のメニューを堪能させていただいた。これはほんのお礼だ。勉強の役にでも立てなさい。」
「あ、ありがとうございます!」
日本一の美食家、海原雄三。思いもかけぬ究極のチベット料理に新鮮な感動を覚えメンツィカンを後にした。
参考 「美味しんぼ」(小学館ビッグコミックスピリッツ連載)
*「トゥクパ」、「モモ」はそれぞれうどん、餃子に似たチベットの郷土料理のこと。
5月23日夜7時より、東京・東日本橋において「チベット医学講座」を開催します。