小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
7月、風の御一行様がメンツィカンの正門に到着すると、両側に真っ赤なサルスベリの花が出迎えてくれた。
さあ、こちらがメンツィカンです。メンは医学、ツィーは暦法、カンは大学を意味していますので日本語に訳すとチベット医学暦法大学となります。麺汁缶(めんつゆかん)と覚えて下さい。なんだかおいしそうな大学ですね。でも実はここは従業員500人を抱えるチベット難民社会の中では最大の会社・病院組織であり、私たちが学んだ大学というのはちょうど新入医研修所にあたるのです。難民でありながら、今ではインド、ネパール全土に渡って合計50箇所もの分院があるなんて凄いと思いませんか。そのほかオランダにも一つだけ分院があります。
1962年、貧しい難民社会における医療の必要性に迫られてダライ・ラマ法王侍医イシェー・ドンデン先生が薬を作り始めたのが病院の起源です。そして法王のお寺からお坊さんを2人選抜し第一期生として教育したのが大学の始まりでした。二、三期生の頃は生徒たちが石を運んで校舎作りを手伝ったり、一つしかない教典をみんなで廻し読みしたり、午前中は講義、午後は薬作りに当てられ、たいへんな苦労をしたそうです。まあ、この開墾物語は在学中の5年間で、耳にタコができるくらい聞かされたので、もううんざりしていますけれど。
え、お坊さんですか?よくある質問ですね。たしかに昔は医者といえばお坊さんでしたが、いまは数名しかいません。しかも2007年の新入生15期生からはお坊さんの特別枠を廃止したために0になりました。外国人にとってはイメージが壊れるかもしれません。でも今は私塾に過ぎないこの大学が将来、国際的に正式な医学大学として認可を受けるために、止むを得ない苦渋の選択だったのです。正式に認可されれば分院の数もさらに増えて雇用も促進されますから。なにしろ今はチベット医が過剰の状態で、僕の同級生である14期生20人が半年後にインターンを終えても医者としての席は現在のところ確保できていないのです。それでもみんな腐らずに一生懸命、研修に励んでいるのは偉いなと感心します。僕ですか?ははは、ねえ、どうしましょう・・・(冷や汗)。
すぐ隣にはデレック病院という西洋医学の病院があります。急性の病や外傷では迷うことなくみんなデレックにいきますし、私たちも無理だと思ったらデレックに送ります。あちらが街の大病院なら私たちは庶民の町医者のような感じですね。事実、ちょっとお喋りにくるだけの患者も多いですし、僕が一番得意としている部門でもあります(笑)。もちろん、その逆に耳鳴りなど慢性病の患者さんはデレックからこちらに送られることもあります。お互いに協力しあって地域医療の向上に取り組んでいるのです。
こちらの暦法学コースには7人の学生がいます。暦法学というと未来の運命を占うホロスコープを想像されるかもしれませんが、実はほんの一部分に過ぎません。占星術師の一番大切な仕事は月齢に沿ったカレンダーを作成し仏教行事の日取りを定めることであり、他にも男女の相性、結婚式、葬式の日取りを定めます。チベット社会では月齢に沿って仏教行事の日取りが決められるので、自然と月の満ち欠けに注意が向きます。医学への応用では、季節の移り変わりに従って処方やアドバイスの傾向が変わるほか、お灸をする際に必ず月齢を確かめてから施術するという特徴があります。また月齢の八日と十五日は薬の力が強くなる吉日とされるので、この日に特別な薬を処方することもあります。しかし、そんな難しい理論よりも医者一人一人が肌でその季節を感じ、耐え忍んでいることこそが暦と医学の強い結びつきではないでしょうか(第30話参)。実際、南インドで研修している同級生は「あまりにも暑くて診察室の天井が落ちてくるような錯覚がする」と嘆いています。
チベットの学生だって将来のこと、異性のことで悩んでいますよ。でもどんな状況でも、死ぬほど暑くても寒くても、ヒマラヤの山中でも、いつも前向きに笑っていることこそがチベット医学の真の魅力だと思うのです。そんなチベット社会で一緒に過ごしているだけで、少しずつ自分が変わったような気がすることが一番の収穫なのです。ほら、みなさんも、この数日、ダラムサラで過ごしているだけで表情が少し朗らかになっていませんか(笑)。
追伸
7月14日発売の現代農業8月増刊号(農山漁村文化協会発行)に寄稿いたしました。
是非、御一読ください。