小川 康の『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』
「チベット薬と掛けて、お母さんが握ったおにぎりと解きます」
「ほう、で、その心とは」笑点の歌丸師匠が合いの手を入れる。
「どちらも心を込めてまーるく作ります」
「うまい!山田君、草楽(そうらく)さんに座布団一枚あげて」
なんて日が来るのを夢みて勉強に励んでいるというのは、あながち冗談でもないんです。いやー、学べば学ぶほどチベット医学が江戸時代の医療と似ていることが分かってきましてね。ならば江戸時代に起源を持つ落語の調子で語ればしっくりいくんじゃないかと思った次第なんですよ。せっかく培った暗誦の能力を用いない手はないでしょう。とはいえ暗誦を自慢するわりには意外と人の顔は忘れるし、先日なんて患者さんの処方箋を見ながら「えー、誰ですか前に処方したお医者さんは、見たことのない筆跡だ。ちょっとおかしな薬の組み合わせですね」と自分の威厳を示すためにもブツブツ言っていたんです。ところが患者はキョトンとしながら「あなたですけど・・・」なんていうんで、「あ、そうそう、で、どう、薬は効いたかい」と慌てて答えたこともあってね、『粗忽長屋』(注1)のネタを地でやっちゃったよ。
それはともかく、まずはチベット医学が大きく発展したダライ・ラマ5世(1617〜1682年)の時代が江戸時代とピッタリ重なる。黒澤明監督の『赤ひげ』(注2)を見た同級生が「なんだオガワ、日本にもチベット医学があるじゃないか」と教えてくれ、改めて映画を見てみると、なるほど脈診の姿なんてそっくりですね。その他にも、ほら、富山の売薬とも似ているって第27話で書いたでしょう。売薬はね1690年の江戸時代に始まったんですよ。水銀や金なんて現代医療では消え去ってしまった薬も、江戸時代とチベットでは用いているんです。なにしろ江戸幕府を開いた徳川家康も健康維持のために水銀の錬製薬を飲んでいたぐらいですから。
それに江戸時代の薬師がよく用いたという附子(トリカブトの毒成分を除いたもの)をチベット医学は今でも汎用している(第8話参)。当時もおっかなびっくりだったそうだけど、かくいう私も初めて処方したときは心配で寝つきが悪かった。それにうっかり、絶対にやっちゃいけないことだけど、附子の処方量を間違えて出しちゃって、あんときは慌てて表に飛び出して「おーい、待ってくれー」と患者を追いかけたもんだ。患者よりもこっちの心臓が止まりそうだったよ。ほんと、江戸時代の薬師の気持がよーく分かる。
危ない薬といえば、この前、日本人旅行客がチベット薬を飲んで人事不詳になっちゃってね。あとで聞いてみると友人が服用している薬の残りを何にも考えずに飲んじゃったんだって。チベット薬だから何でも大丈夫なんて早合点してはいけませんよ。そこで古畑任三郎のように、おっと江戸時代だから銭形平次のほうがいいかな、まあ、いずれにせよ推理したところ、その友人とやらは肝炎を患っているんじゃない? と指摘するとビンゴだった。チベット薬ではなぜだか、肝炎にアトロピンを含有するダツラ(朝鮮アサガオ)を処方する傾向があるんでね、催眠作用のある薬の副作用にやられたってえわけです。江戸時代に華岡青洲(注3)がダツラを使って世界初の全身麻酔に成功したのはご存知ですか。こうやってチベット薬の副作用を紹介するとチベット医学信者からお叱りを受けることもあるんですがね、私はチベット薬を一人前の立派な薬だと認めているからこそ、現代医学と同列に副作用を紹介していることをどうか御理解ください。
チベット医学だって全くもって完璧ではないんです。そして江戸時代の医療と同じように限界があって、最後に困ったら加持祈祷に頼るあたりも同じなんですけど、それが正式に社会の中で医療行為の一つとして認められているって、なんかほっとしませんか。中にはこんな笑える記述もあるんですよ。
難産のときは、オム・デンデン・マハーデン・サバディデソーハー、と真言を唱えればお産が楽になる。逆子のときはこの真言を逆さから読みなさい(四部医典秘訣部74章)
もちろん実践はされていませんし、こんな非科学的なことまで認めるつもりはありません。でも必死さというか、藁にでもすがるような古代の熱い息吹を感じませんか。江戸時代、田舎の医者は農閑期になると暇になるから畑を耕し、患者があれば診察する半農半医の野掛け医者が多かったというけど、そもそも私はね、こんな汗と土の匂いのする田舎の医者に憧れてチベット医学を目指したんですよ(第20話参)。そういえばヤブ医者の語源は一説には野巫医者で、田舎(野)で呪術を遣う(巫女)医者のことを指すというから、まさにヤブ医者はチベット医そのものになる。だから「あいつはヤブ医者だな」って陰口を叩かれたら、これからは喜び勇んでこう答えますよ。
「へい、あっしがチベット政府公認の正式な野巫(ヤブ)医者です」。
◆注
1.『粗忽長屋(そこつながや)』
古典落語の演目。忘れっぽくて、そそっかしい者たちが繰り広げるお笑い話。
2.『赤ひげ』
黒澤明監督の映画。江戸時代に実在した小石川療養所の主治医・赤ひげを描いたヒューマンドラマ。
3.華岡青洲(はなおかせいしゅう)
江戸時代の医師。実母と妻を実験台に全身麻酔薬を開発し、世界初の麻酔手術を行った。
◆参考文献
『江戸の医療風俗辞典』鈴木昶 東京堂出版
『語源を楽しむ—知って驚く日常日本語のルーツ』 増井金典 ベスト新書