第75回●チュツァ ~酸っぱい思い出~

小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

tibet_ogawa075_1アムチ薬房裏の畑のチュツァ(ルバーブ)

小諸・アムチ薬房の裏の畑でルバーブ(タデ科)が大きな葉を広げた。「6月が採りごろよ」と知人に促されて真っ赤な茎を採取し、早速、ルバーブジャムを作ってもらった。しかし、僅かな躊躇の後にジャムを口にした瞬間、その酸味によってルバーブはチベット語でチュツァ、ジャムは強制労働へと脳のシナプス回路が接続され、かすかな頭痛に襲われてしまった。すなわち、チュツァ強制労働。
「ルバーブが口に合わなかったの?」と心配してくれる知人に「いや、大丈夫です」と無理な笑顔で答えると窓の外のカラマツ林を眺めながら遠い昔の郷愁を呼び起こした。あれは4年前、確か安部さんが首相に就任し、僕がまだメンツィーカンの4年生だった2006年の夏のことだったろうか…。

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「オガワ以下歩兵部隊はチュツァの根を採取すべく、タンクン(第4話参)群生地の手前、滝の脇の急斜面に急行せよ。各自二袋採取を終えたならば帰還を許可する」
いったい今日が何日で何曜日なのか分からなくなってしまった薬草実習の中盤、3泊4日の特別遠征部隊(第27話参)から漏れた僕たち劣等兵は隊長の命令を受け、朝7時、鍬を担いでベースキャンプを出発したが隊列など揃うはずもなかった。

tibet_ogawa075_2筆者がヒマラヤ山中で掘った
チュツァ根

 チュツァ・ニェンジョム・マイ・カム・ツィ・チェ
 チュツァは感染症を治し、傷口を乾燥し癒す
                              (四部医典論説部第二十章)

薬に用いられる黄色い根はチベット医学では感染症や傷に効くとされ、現代医学的には緩下効果がある大黄(漢方便秘薬に配合)の仲間に分類される。チュツァ根の良品は長芋のように真っ直ぐで1m近くにもなるが、基本的にせっかちな僕は半分ほど掘り返すと、後は力任せに引き抜き、折れた形の根がほとんどのため芸術ポイントはかなり低い。その昔、長野で就農していた折、酒飲みの親方がどんなに酔っ払っていても僕に長芋掘りの仕事は与えなかったのは正解であろう。


強烈に照りつける太陽の下、今日もいい汗かいたぞ、そろそろ帰ろうか、と気を緩めたときだった。息を切らしながら伝言女性兵がやってきた、と思ったら面倒くさくなったのか、50m下方から口に手を当てて、今年が初陣となる隊長の伝令を叫んだ。
「チュツァの収穫が好調のようだから、そのまま引き続き採取をつづけるようにー。お昼は下の川で食べ、午後も掘るんだってさー。以上。分かったあー?」
「分かりませーん!俺たちは帰りまーす」

tibet_ogawa075_3ヒマラヤ山中での採集風景

こういうのを専門用語で“統帥権の干犯”というらしい。朝の7時半から今の11時まで休み無く鍬を振り続け、さすがに体力も尽きようとしていたころの作戦変更に怒りを隠すことができなかったが、同時に、中学時代に生徒会長に立候補したが50票差で落ちたくらい真面目な僕には無視することもできず、結局、しぶしぶ作業を続けることになってしまった。さらに偵察兵の報告を受けた隊長から「この奥地にさらなる群生地を発見。前線を押し上げよ」という現場の状況を無視した指示が下り、足取り重く、さらなる急斜面へと駒を進めた。というか喉が渇いて死にそうだ…。自他ともに劣等兵と認め、鍬よりも筆が似合う文学青年ティンレは「地獄の大海に落っこちたようだ」と仏教的に呟いた。
昼食後、直ちに斜面を駆け上り仕事が再開されたが、早速、ティンレは地獄の大海で溺れてしまい力尽きている。君には男としてのプライドが無いのかね、と詰問しようとしたものの、かくいう自分もダウン寸前である。
「チュツァの茎を食べるのよ。酸っぱくて元気がでるから」
と美人のゾンパが勧めるので口にすると心なしか疲れが和らいだ。
と、その時、突然「ピカッ」と光ったかと思うと、松坂のストレートがミットに届くよりも早く雷鳴が轟いた。振りかざした鍬を咄嗟に投げ捨てた僕に向かって、世界的な名医ドジェ氏の娘は「オガワ、弱虫―」と笑いながら鍬を拾い上げた。彼女に雷が落ちますように、と一瞬でも願ったことをこの場を借りて懺悔したい。
同時に激しい雨が降り始めるにいたって、ようやく撤退命令が下り、各自、一品ずつ持って下山を始める。鍬、鍋、シート、包丁…。そして、格好をつけて殿(しんがり)を務めようとした僕の眼に飛び込んできた最後の一品はチュツァが詰まった大きな麻袋。やれやれ、みんな僕を信頼して甘えてくれているんだな、どれどれ、お、重い(推定60kg)。それでも強引に背中に担いでしまえば何とかなるもので、後ろからはNHK特集のカメラがまわり、喜多郎のテーマソングに乗せて石坂浩二のナレーションが流れていることを妄想しながら歩きはじめた。「この薬草を待っている患者たちがいる。その笑顔に出会うために、オガワは歩く…、おい歩けよ、倒れちゃ困るよ。カットカット!」
「隊長!大変です。オガワが倒れて、いや、潰れています」
ベースキャンプまで、あと100mというところで精根尽き果てた僕に向かって、車酔いが原因で主力部隊を外された力持ちのオーセルが笑いながら走ってきた。雨が上がったばかりの濃青の空と向き合いながら「もう、ダラムサラに帰りてえ」と呟いたその口の中にはチュツァの甘酸っぱさが微かに残っていた。

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tibet_ogawa075_4ルバーブ・ジャム

「・・・何か深い理由があるようね。訳もなく悲しくなることって誰にでもあるからね」知人は深い詮索をせずにそっとハンカチを差しだしてくれた。僕は眼にうっすらと浮かんだ涙をふき取るとルバーブジャム・トーストを口にし、青空に映える浅間山を眺めながら、ヒマラヤ山中での激しかった一日を思い出していた。



小川さんによる講座情報
この夏は「コモロ DE チベット」

●薬草観察・薬草茶作り
(日 程) 7月31日、8月1日、8月9日  ※定期講座
(参加費) 2名~5名の場合、一人5,000円  6名~10名の場合、一人4,500円
       ハーブティーとケーキの軽食付き   (協力 麦草工房)
(場 所) 薬草観察フィールド:小諸・麦草工房周辺  薬草茶講座:小川アムチ薬房 または 麦草工房

<お問い合わせ・お申込み>受付は終了しました。


詳しくは 小川アムチ薬房 のサイトをご覧ください。

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