第88回●ンゴレン ~資格制度化の意義~

小川 康の 『ヒマラヤの宝探し 〜チベットの高山植物と薬草たち〜』

tibet_ogawa088_1トラックに薬草を積み込む

2005年夏、激しく揺れるトラックの荷台では重要な作戦会議が開かれていた。
「いいか、みんな。チェックポストの手前200mに、一瞬、岩場の陰になって監視が効かない地点がある。そこでトラックのスピードを不自然ではない程度に少し緩めるから、みんな一気に荷台から飛び降りて、すぐさま山の中に逃げ込め。そしてチェックポストの裏の森を駆け抜けて、約300m過ぎた地点で再び合流して荷台に飛び乗れ。いいな」

tibet_ogawa088_2薬草採取の実習

これは戦場でも映画の撮影でもない、大学2年生のときのヒマラヤ薬草実習中で実際にあった出来事。ヒマラヤ奥地の、その地点ではトラックの荷台に生徒を乗せて走る正式な許可が下りていなかったのだが、よりによって今日は厳しい検問が行われているという。そして我々、25名の遠征部隊(第27話)は隊長の命令に従い「それ行けー!」と一気に荷台から飛び降りて山の中に逃げ込んだ。うーん、ワクワク、ドキドキする!まるで盗賊ごっこをしているかのような高揚感。息を切らしながらみんなと山を駆け抜けていく連帯感。

森の中から道路に飛び出ると、ちょうどトラックが不自然ではないほどの遅いスピードで走ってきて、荷台に飛び乗った。
「おーい、みんないるか。1,2,3・・・。ちょっと待て、1人足りないぞ」
と気がついたとき、トラックの後方を太めのゴンポが必死に追いかけてきた。まるで映画のお笑いキャラそのものである。
「早く走れ、もう少しだ!」
荷台から伸びる手にゴンポの手が届いた瞬間、みんなの顔に最高の笑顔が浮かんだ。

2010年8月、チベット医学がインド国内においてようやく認可(チベット語でンゴレン)され、メンツィカンはその話題でもちきりだった。あれ、じゃあ、今までは何だったの?と思われるであろう。1961年に難民社会における医療の必要性に迫られて自然発生的にチベット医学の診療が始まり、しだいにインド各地へとメンツィカンの分院を広げていった(第41話)。その50年間、インド政府は黙認するという、インドらしい柔軟な方策によってチベット医学を見守り、監視を続けてきたのである。

認可されることの一番の利点は、なんといっても、これでメンツィカンがインドから追い出される心配がないという保障を得た点にある。多くの貧しいインド人がチベット医学に掛かっている現状をみれば(第26話)、政府が突然、違法であるとして弾圧する可能性は少ないものの、インドと中国との政治情勢次第では、何とでも転ぶ不安は拭えなかったのである。
またメンツィカンの薬をインド全土の薬局で取り扱ってもらえる可能性も出てくる。インド各地にメンツィカンの分院を設置しやすくなる。ヒマラヤ薬草実習においても許可を得ることが容易になり、チェックポストを堂々と通過できるようになる。もう、あんな盗賊ごっこは二度とやらなくて済むだろう。メンツィカンを卒業すればインド国内における学士(BA)の資格を得られるようになるかもしれない。などなど、こんなにもいいこと尽くめのはずであるが、意外と学内には冷ややかな意見も多い。

tibet_ogawa088_3左が近代的包装
右が従来の包装

賛成できない理由のひとつに、チベット医学がインド伝統医学アーユルヴェーダの一部として認識されてしまうのではという危惧がある。難民である彼らにとってチベット医学の純潔性を立証していくことは民族として大切なことである。また、インド政府からの介入も当然、受け入れなくてはならなくなり伝統的な部分が失われてしまう恐れがある。事実、メンツィカンの入学試験において僧侶特別枠を廃止したのは、学習体系を現代一般社会に倣ったものにするためだった一面もある(第41話)。丸薬もPTP包装といった現代医療と同じ形のものへの転換を図っている。これには外国人だけでなくチベット人からも「味気がないねえ」と批判的な声が上がっている。いや何よりも、不安定とはいえ、とりあえず現状のままでも満足じゃないか、というチベット人の保守的な気質もある。

tibet_ogawa088_4トラックの中で

伝統と変革の間で揺れる葛藤はどこの文化にも存在するであろう。便利と安心、安定を求める流れは誰にも抗し難い。だから僕は一概に、インド国内における資格制度化を反対しない。ただ、僕にとってのチベット医学の魅力は、生きるか死ぬかも分からないドキドキ、ワクワク感にある(第11話)。保障がない社会で紡ぎだされる信頼関係にある(第62話)。一緒に大きな壁に立ち向かっていく仲間意識にある(第16話)。いま与えられた環境の中で生き抜いていく野生的な力強さにある(第55話)。だから、なんとかギリギリ、認可される前のチベット医学の良き不安定な時代を過ごせたことに安堵しているところである。みんなとヒマラヤ山中を盗賊のように駆け抜けた爽快さを僕は一生、忘れないだろう。

そういえば小さいころ「宝探しごっこ」の他に「ドロ警」という盗賊ごっこも大好きだったのを思い出した。「ヒマラヤの宝探し」に続くエッセイ第二弾は「ヒマラヤのドロ警」。でも、このタイトルでは風の旅行社から認可(ンゴレン)が下りないだろうな。

 (注):ドロ警(泥棒と警察の略)
     逃げる泥棒組と、それを捕まえる警察組に分かれて行う鬼ごっこのようなゲーム。

<小川さんによる講座情報>
チベット医学・絵解き講座

8世紀、神秘の国チベットで編纂されたというチベット医学聖典・四部医典は17世紀に80枚の紙芝居として表わされ、より分かりやすく親しみやすいものになりました。本講座では80枚のうちの2番、3番、4番にあたる3つの樹木比喩図を用いて、チベット医学の基礎概念「身体、診察、治療」を解説します。またヒマラヤの薬草についても解説します。

(日 程) 1月30日(日) 2月13日(日)  ※両日、内容は同じ
        13:00~15:00  : チベット医学の基礎概念・樹木比喩図
        15:15~16:30  : ヒマラヤの薬草講座
(参加費) 4,500円(テキスト代金500円は別途。参考資料は講座代に含まれる)
(場 所) 小川アムチ薬房
(お問い合わせ・お申込み)受付は終了しました。

詳しくは 小川アムチ薬房 のサイトをご覧ください。

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