第106回●トゥジェチェ ~ありがとう~

tibet_ogawa106_1トウキの幼苗

2011年10月20日、ふるさと富山は高岡、戸出町で「チベット医学の世界」と題して講演会が開催された。しかし、この日は気が重い。なにしろ僕の小さいころを知っている人たちばかりが集まるのだ。しかも、あろうことか小学校時代の先生もいらしているではないか。「あらー、大きくなったわね」なんて励まされながらチベット医学の偉そうな話はできるものではない。それでも気を取り直し、聴衆に甘えるくらいの気持ちで話を始めるといつもの調子を取り戻していった。
ちょうどこの日は著書『僕は日本でたったひとりのチベット医になった』の発売日と偶然にも重なったことから、出版記念の様相を帯び、講演後には多くの本を買っていただいた。しかも、翌日には地元新聞で、講演の様子と共に本を大きく紹介していただき、多くの反響をいただくことになった。

地元の福祉会館で開催されたこの講演会。実は、闘病生活を送っていた母が半年前の4月に企画し準備してくれていた。息子の本の出版と共に地元での講演会を誰よりも楽しみにしていたけれど、残念ながら願いはかなわず7月7日の夜に母は永眠した。
失意のまま葬儀を終えると、それからは何かに憑かれたかのように遺品整理と実家の掃除に取り組んだ。思えば生まれてこのかた、こんなにも掃除や片付けに集中したことはなかったような気がする。いつも掃除は母に任せっぱなしだったから、その罪滅ぼしの意味もある。すると母の学生時代の日記や、懐かしい写真、手紙が次々と出てきた(第103話)。こうして今まで知らなかった母の姿に死後、ようやく触れることができたのは、楽しくもあり悲しくもあった。今まではチベット医学の勉強、帰国後は講演会や執筆に追われて前へ、前へ突き進んできたけれど、母の死によって、はじめて立ち止まることができている。
遺品整理が一段落ついて、小諸に戻ってからも掃除をする日々が続いた。10月に入籍した妻が、無精な僕を引っ張ってくれたこともある。40年の人生の中でやり残してきた宿題を一気に片づけているような感覚。なにしろ名刺の整理だけで丸1日を費やしてしまったほどである。10月20日の地元での講演会はそんな最中に開催された。

tibet_ogawa106_2インド人の子供と触れ合う母
2000年11月 ダラムサラにて

富山から再び小諸に戻り、家の中の整理を一通り終えると裏のトウキ(当帰)(第73話)畑に目が行った。「トウキの香りが好きだから、小諸から持ってきておくれ」という病床からの母の電話が切なく思いだされる。トウキの根を収穫するには、花芽を7月に摘んで、栄養を根に運ばせなくてはいけない。しかし今年は7月を実家で過ごしたせいで、ほとんどのトウキが開花し種を実らせてしまった。根を掘ってみると、結実のために栄養分を使い果たしたのだろう、やせ細り、腐ってしまっている。たくさんの貴重なトウキを無駄にしてしまったものだ。母が昏睡状態に陥ったとき、トウキの葉を近づけて、その匂いで僕が傍にいることを知らせたこともあったけれど、もうその必要もなくなってしまったな……。そうしてトウキ栽培への意欲を失いつつ枯れたトウキを抜いているとき、ふと足元に目がいった。最初は雑草だろうと思っていたのだが、顔を近づけてみると、なんと、カエデの形をした小さなトウキの芽が無数に生えているではないか。
「あ!」

一般的に畑でのトウキの芽出しは大変、難しいとされる。土を整え、遮光ネットをかけ、毎日の水やりが欠かせない。そうして初めて芽が出るし、昨年も今年もそうした努力の末に芽出しに成功していた。それが、こうして畑で落ちた種から自然と芽が出ているなんて信じられない。発芽しやすいホルモンのようなものが親株の根から周囲に分泌されていたのかもしれない。全力を尽くして子孫を残し枯れていった親株。そしてその足元から生まれてくるトウキの子供たち。この幼苗を大切に保存して、来春植え替えれば、来秋には今年の予定収穫量よりも遥かにたくさんの根を収穫することができる。

僕の驚いた声に妻が「どうしたの?」と声をかけた。でも、僕はじっと地面を見続けてしばらく動くことができない。ただ言葉にならない「ありがとう(チベット語でトゥジェチェ)」という思いとともに、小さなトウキの苗を見つめ続けていた。
腐らなかった数少ないトウキの根を掘り取ると、妻が丁寧に洗い、綺麗に乾燥してくれた。僕の荒っぽい扱いとは違い、トウキが気持ちよさそうだ。「すごい!トウキを洗っていると体がポカポカしてくるよ」。トウキの甘い匂いに包まれながら妻が喜んだ。

背後の浅間山は美しい紅葉に彩られ、もうすぐ冬が訪れることを知らせてくれていた。母の死、出版、結婚。忘れられない思い出とともに2011年は過ぎ去ろうとしている。これからは宿題(掃除)をため込むことなく、足元を見つめて、少しだけゆっくりと生きていこうと思っている。

2012年もどうぞよろしくお願いします。

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