日本名クサジンチョウゲ
2009年、都内で開催された野元甚蔵さんの講演会に出席した。野元さんは鹿児島県生まれの92歳。戦前に陸軍特務機関の命を受けてチベットに潜入。モンゴル人を装って1年半、チベットで暮らしたという伝説の人である。さらに1939年にはラサにおいて当時まだ4歳だったダライラマ14世の行幸に出会った歴史の証人でもある。いまでこそ、飛行機やバスを使って簡単にチベットへ旅行ができるけれど、当時、徒歩で、しかもモンゴル人と身分を偽ってチベットにたどり着き、そこで暮らすという労力は想像も及ばない。帰国後は満州に赴任するも終戦の混乱の動乱に巻き込まれるなど、その半生は激動と呼ぶにふさわしい。
詳細は野元さんの著書『チベット潜行1939』(悠々社)を御一読いただきたい。著書の中には、野元さんのドラマチックな人生を盛り上げる脇役のように、チベットの薬草や、医学、占星術が登場しており、そちらにも興味をひかれた。
「紙は現地の山野に自生する植物の根を原料として作られている。紙質は、わが国の美濃紙に似た上質のものから、下はザラ半紙程度のものまである」
(チベット潜行1939 子弟教育についての章 P218)
この植物とはレチャクパ(日本名クサジンチョウゲ)のこと。2011年チベット薬草ツアーの際にたくさん出会った薬草だ。四部医典には「レチャクパは腫物を癒し感染症を打ち砕く(論説部第20章)」と記されている一方、現地のチベット人たちには毒草として知られている。
「チベットにはラマ僧の医者もいたが、内蒙古のラマ医者程度のものと思われる。彼らは、病気になっても昼間は絶対に寝ないで、我慢して座り続け、眠くなるとゆっくり歩きまわって眠気を抑える。このことをボログショに尋ねてみたら、『昼寝をすれば熱病になるという古書にもとづいたもの』と答えた。」
(チベット潜行1939 チベットの医療の章 P222)
を表した絵解き図
この古書とは、まさしく四部医典のことを指している。事実、論説部第9章には次のように記されている。「暑い日中に昼寝する。ジッとしていた後に激しい運動をすることはティーパの病が発症する後因になる」。ティーパの病とは主に熱病や肝臓病を指している。つまり、この一節を当時のアムチたちは忠実に守り、庶民にもその概念が普及していたことがうかがえて非常に興味深い。さらに野元さんは続けて
「我慢して起きていたら逆に悪くなった経験があり、この療法は迷信にすぎないと思った」
とバッサリ切り捨てている。
実は、まったく同じ感想を40年前に同じくチベットに潜入した河口慧海さんは著書『チベット旅行記』の中で語っている(第104回、児女と病人の章)。河口さんは自身が漢方医だったこともあり、当時のチベット医療を野元さん以上に痛烈に批判している。得てしてチベット医学が主役の文献においては美談ばかりが記されてしまう傾向にあるが、こうした旅行記のなかに登場する情報は、当時の医療世相を忠実に伝えているので非常に興味深い。
また、当時、ラサで伝え聞いたというシッキム地方の噂も面白い。
「シッキム地方の女は、人に毒を盛って、その人が死ぬとその福が自分に乗り移るという迷信に惑わされているという。野生の毒草で作った毒を…中略…その毒は無味無臭で、一ヶ月か二ヶ月経って次第に顔や手足が青黒くなり、死に至るらしい」。
(チベット潜行1939 帰国の途につくの章 P236)
これをアムチ(チベット医)というよりは日本の薬剤師として分析すると、その毒とはヒ素ではないかと思い当たる。仮に、野生の毒草が正しいとするとトリカブトが第1候補となるが、無味無臭ではないし、中毒症状も該当しない。チベット仏画の黄色い絵の具はパプラと呼ばれ、古来よりヒ素含有の鉱物が用いられており入手しやすい環境にある。無味無臭で中毒症状も似ている。ちなみにチベット南部、インドから見れば東北部にあたるいくつかの地域では毒を盛る風習があると、チベット社会では2012年のいまでも迷信のごとく信じられている。実際、四部医典には「(毒を盛る)地域はインド、中国、ドルポ、モン、がある(秘訣部第87章)」と記されており、このモンと呼ばれる地域がシッキム近隣のインド東北部に該当していることから、古代においては本当に毒を盛っていたのかもしれない。でも、いまこうして話されている野元さんの元気なお姿から推察するに、シッキムに滞在中、毒を盛られることはなかったようだ。
朴訥と、ゆっくり語る野元さんのお話は、残念ながらラサ到着というクライマックスを迎える前に時間切れになってしまった。波乱万丈の人生を、たった1時間で語るのは無理というもの。それでも、伝説の御仁にお会いし、そのお声を耳にすることができただけで僕は大満足。野元さん、本当にありがとうございました。ただ、現代のメンツィカンにおいては、けっして「熱病のときは昼間に寝てはいけない」という指導はせず、現代の常識にしたがって「ゆっくり休みなさい」と指導していますので、どうかご安心ください。
(参考図書)
『チベット潜行1939』(野元甚蔵著、悠々社発行)
『チベットと日本の百年―十人は、なぜチベットをめざしたか』(日本人チベット行百年記念フォーラム実行委員会編、新宿書房発行)
『西蔵漂泊―チベットに魅せられた十人の日本人(上)〈下〉』(江本嘉伸著、山と溪谷社発行)
小川さんの講座・講演会情報
【講座】
【講演会】
~チベット医学への挑戦をとおして命と暮らしを考える~
(主催) 小川康講演会実行委員会
(後援) 北日本新聞社 あすを拓くとやま文化協会
(日時) 2月21日(火)18:00~19:30
(場所) 富山県富山市 自治労とやま会館302号室
(参加費) 500円(当日払い)
(予約) 不要
(問い合わせ) 講演実行委員会 0766-63-1392
薬草のプロが語る「誰でもわかるハーブの化学」
(日時) 2月26日(日)
(会場) 都内
詳しくはこちら→http://satvik.jp/event/ogawa3.shtml