メンツィカンの定期試験は制限時間3時間で2日間に渡って行われる。解答は論述方式のため、チベット語速記体で作文し続けなくてはならないのだが、試験の緊張感のためかあっという間に3時間が経過してしまう。そして気が付くとボールペン(チベット語でニュグ)のインクが尽きてしまっていることがよくあった。この定期試験のために日本から持参し大切に取っておいたボールペンだ。インド製のボールペンは突然、インクが詰まってしまうため、普段はいいけれど試験に用いるにはリスクが大きい。そこで同級生たちは必ず予備のボールペンを2,3本持参して試験に臨んでいたようだ。それに比べて日本製は書き心地がいいしインクが途切れないので、当時の僕には若干のアドバンテージがあったかもしれない。でも、正々堂々、2年生のときに日本製のボールペンを学生全員にプレゼントしたことを付記しておきたい(第90話)。そんなこともあり、日本では見向きもされない普通のボールペンでも、ダラムサラにくるとスーパーヒーローになれる。僕だけでなくみんな日本製ボールペンを大切に用い、1本ずつ完全にインクを使いきっていた。そして、全力を出し切ったボールペンを捨てる時には「ごくろうさま」という感謝の言葉が自然とついてでたものだった。
上の白いタンクはギザという湯沸かし器
水を溜める容器が置いてある
ダラムサラでは水も貴重だった。乾季にあたる10月から4月にかけて、ダラムサラは慢性的な水不足で夕方には水が出なくなる。この時期、水が原因でチベット社会のあちらこちらで喧嘩が起きてしまうのは致し方ないこと。メンツィカン入学前にアパート暮らしをしていたときは、1日当たりバケツ2杯分しか配給がないため、洗い物をした水を捨てずにとっておき、最後はトイレに使うくらい大切に使っていた。水が限定された環境を体験してはじめて、料理や洗濯などの用途よりもトイレ用の水の優先順位が高くなることを自覚させられたのは、人類学的に大発見だった。だから、たまに雨が降ると大忙しで外にバケツを出してトイレ用の水を確保したのは、今となってはいい思い出である。
日本製の味噌や醤油、マヨネーズは、容器が綺麗になるまで使い切り、最後には容器をお湯ですすいで、そのすすぎ汁ですら飲み干すようにしていたけれど、日本ではまず考えられない。日本製のコーヒーフィルター紙は貴重なので、使った後に洗って干し、3度くらい使ってから捨てるのは当たり前のこと。この紙は金魚掬いの掬い紙よりも慎重に取り扱われていたに違いない。刺身に対する渇望からか、たとえば「アボガドに醤油をかけるとマグロの味がする」など、ウソかホントか定かではない知恵が広まったこともある。日本から持参したコンニャク粉でコンニャクを作り、薄く切って円心上に並べ、気分と舌触りだけは「フグ刺し」を楽しんだこともあった。まるで落語「長屋の花見」のようで、振り返ると懐かしくて笑える。
ダラムサラの風景
日本語の本は日本食レストラン・ルンタに置かれているものがすべてだ。でも限られた環境のおかげで、普段ならば手に取らない分野の本を読むことで知識の幅が広げることができたように思う。たとえば上記のような落語ネタが出てくるのは、ルンタで「古典落語全集」に出会ったおかげである。そのほか、文藝春秋という雑誌は、実家の母が定期購読していたけれどお堅いイメージがあって手に取ったことはなかった。それがダラムサラで出会うと、分厚くて何時間も読むことができるから有難いこと有難いこと。後日、文藝春秋の編集者に出会った時には、心からのお礼が口から自然と突いて出た。
ちなみにチベット人にとって書物とは仏典や医学書など専門書のことを指し、日本でいう娯楽小説にあたるチベット語書籍は数少ない。だからメンツィカン寮で日本の本を読んでいて大笑いしたとき、みんなからたいそう不思議がられたものだった。そう考えると娯楽本があるだけ日本人は幸せだといえる。
だからといって、ボールペンも水も味噌も醤油も使い放題で、日本語の本が有り余るほどある環境が幸せかと言われれば、答えに迷ってしまう。帰国して3年が経過したいまでは、限られた環境で、そのありがたみを享受しつつ知恵を絞っていたときのほうが楽しかったかもとダラムサラ生活を懐かしんでいるところである。
みなさんも、そんな楽しい知恵を異国の地で絞ったことがありませんか。是非、教えてください。
(補足)
・ニュグというのは正確には万年筆のことを指しますが、広義でボールペンや筆も含みます。また、2012年の現在はインド製のボールペンは進化し、日本製(といっても実際には中国製でしょうが)との差はほとんどなくなったので、ヒーローになれません。
・水不足の期間であっても、風のツアーで泊まるホテルでは水に困ることはありません。御心配なく。
・「長屋の花見」 長屋の貧しい住人達が花見に出かけ、お茶を酒に、タクアンを卵に、大根の千切りをカマボコに見立て、すっかりその気になって大騒ぎする話。
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