2000年5月、メンツィカン入学試験に挑むにあたり(第15話)、外国人としてのハンディが最も大きい科目は論文だった。チベット語の勉強を初めて僅か2年5ヶ月の時点で、高尚な論文を短時間で書きあげるのはどだい無理な話。過去の試験問題を見ると「今後のチベット社会について」「私の愛する祖国」という政治的なものや、「わが人生の幸不幸」という哲学的論述など、その年ごとに様々なお題が出されていて暗澹たる気持ちになった。
そこで一か八かの作戦に出た。「私がチベット医学を学ぶ理由」というお題で論文を前もって作成し、丸暗記して試験に臨む作戦を立てたのである。つまり、どんなお題が出題されようとも、自分だけはこの題目で論文を記し、チベット医学を学びたいという意気込みを大学側に伝えるしかない。というか、いまこうして振り返ってみても、他に手立ては残されていなかったと思う。
まずは、辞書を引きつつ自分でチベット語の作文にとりかかった。いま日本社会が抱える問題点。チベット医学に秘められた可能性。「高層タワーのような日本医療には、いまこそ、チベット医学のように大地に根差す力が必要だ」と比喩を織り交ぜながら熱く綴った。そして、それをチベット語のリンチェン先生(第85話)に推敲していただき、格調高い文章に仕上げた。とはいえ、なにしろ制限時間3時間にも及ぶ長論文である。1日6時間の試験を2日終え、精根尽き果てているにも関わらず、明日の論文試験に備えて、徹夜で暗記に取り組まざるを得なかった。
そんな疲労困憊の中で臨んだ試験3日目。ダラムサラの空に風の馬が駆けた!(チベットの諺で幸運を意味する)。なんと、論文のお題が「チベット医学の有効性について」だったのである。これを「日本におけるチベット医学の有効性。~私がチベット医学を学ぶ理由~」と題目に少しだけ加筆すると、僕はリンチェン先生との合作である論文を一字一句間違わず正確に記した。結果的に、論文部門において280人中、5番の高得点を獲得したのには周囲から称賛を得たと同時に、「本当に日本人がチベット語で論文を書けたのか?」と疑念を抱かれても仕方がなかったと思う。もちろん、長文を丸暗記できた実力と、幸運を引き寄せた意気込みは評価されるべきだけれど、当時の僕の文章力は、あの論文を自力で作成できるほどにはなかったことを正直に告白しておきたい。
入学後は医学生にふさわしい文章力を身につけねばと作文に力を入れた。メンツィカンでは毎年、論文集『カンリ・ランツォ(チベットの若者たち)』を発刊しており、学生たちはチベット語、もしくは英語で論文を1本提出しなくてはならない。たとえば、四部医典の「食事療法」の章を現代社会に照らし合わせた論考や、医学と暦法学との関連についての論文、「難民として生まれて」という深いテーマのエッセーもあれば、ときにはラブポエムも登場する。卒業後に文献研究部門や英語の翻訳部門に就職したい学生は、力のこもった論文を提出して、ここぞとばかりに大学にアピールを怠らない。そうして出版された『カンリ・ランツォ』を読むたびに、自分がメンツィカンに在籍しているのは場違いなのではないかと萎縮してしまったものだった。なぜなら同級生たちのレベルの高い論文や詩文を通して、自分との圧倒的なチベット語力の差を痛感してしまうからだ。
そこで、なんとか彼らに追いつこうと僕は毎年、論文を他の誰よりも時間をかけ作成し、親友のジグメ(第2話)に頼んで修正してもらいつつ、何度も書き直して作文力の向上に取り組んだ。そうした努力の甲斐あって3年次にはジグメの訂正がまったく入らないまでに成長し、4年次は「水銀の毒性について」、5年次は「現代医学につながるチベット医学」と高尚な内容を発表することができた。僕の成長を1年生のときから見守っていたジグメは、2012年の現在、後輩たちの授業を持つ際に、いつも「オガワの成長」を例に出してチベット語作文の大切さを説いているという。
とはいえ、まだまだチベット語での作文は難しい。もしも、チベット語で格調高い原稿を書けるようになったなら、その時こそ「真のアムチ」としての資格が得られるのではないだろうか。あの入学試験のときの奇跡を無駄にしないためにも、今後もチベット語の作文力を向上させていきたいと思っている。
(補足)
『カンリ・ランツォ』はダラムサラにあるメンツィカン内の本屋で売っています。英語版とチベット語版とは別冊になっています。メンツィカンの学生1人ひとりの息づかいが感じられますので、機会があれば是非、ご一読ください。
小川さんの講座・旅行情報
【講座】
【旅行】