バススタンド広場
ルームメイトのダツェが興奮しながら部屋に飛び込んできた。「いま、バススタンドでインド人タクシードライバーとチベット人の大乱闘があって、チベット人が1人、半殺しになったらしい。絶対に許せねえ!」。あれは2007年4月、僕がメンツィカン5年生のときのこと。そして、翌日からチベット人側がインド人商店やタクシーに対する不買運動を徹底して行う抗議行動に出た。ちなみにチベット人の就労には制限がいくつかあり、タクシードライバーはすべてインド人である(注)。当時、さまざまなデマがダラムサラ社会を錯綜し、みんなが振り回された。結局、1週間後に「チベット側に非があったようだ」と亡命政府首相サムドン・リンポチェ(第130話)がインド側に正式に謝罪し、「我々、チベット難民を50年に渡り受け入れてくれているインドへの恩義を忘れないように」と念を押すことで騒ぎは収束した。冷静に調査したところ、酔っぱらったチベット人の若者が、タクシーと接触したことに怒って運転手の頭を殴ったことが切っ掛けだと判明したのである。原因の所在はさておき、こうした個人的な喧嘩が切っ掛けで民族(チベット語でミリク)の対立に発展してしまうことがある。
1994年には、ダラムサラにおいてチベット人の若者がインド人を刺殺する事件がおきた。すると、インド人の一団が「チベット難民はダラムサラから出て行け!」と商店街の打ちこわしをしながらデモ行進を行ったのである(第29話)。このとき道に面していたメンツィカンの窓ガラスも数枚、割られたという。それに呼応してダライラマ法王はチベット亡命政府をダラムサラから南インドへ移すと仮決定したが、結局はインド人の暴動を抑えなかったことを州政府が亡命政府に謝罪することで移転は取り消された。デモの激しさはいまでもチベット人のあいだで生々しく語りつがれている。1999年7月にも、マナリ(第13話)において、まったく同様の事件が起こり、チベット人の商店街が焼き討ちにあっている。このとき僕は事件直後にマナリを訪れており、その惨状を目の当たりにした。
デリー空港出発ロビー
誤解のないように補足すると、インド人はとても平和的な民族で、ガンジーの非暴力運動に代表されるように暴力的な行為は日本以上にタブーとされる。しかし、そのぶん、いざとなったときの決起力は我々の想像をはるかに凌駕する。穏やかさと激しさ、寛容と厳しさの両面を内包した民族。その極端なまでの二面性ゆえにインドの魅力が高まっているといえる。
1発の銃声が切っ掛けで第一次世界大戦がはじまったように、些細な事件が切っ掛けで大きな民族問題に発展することがあるが、当初、平和な国・日本からやってきた僕には、そんな異民族間の緊張をなかなか理解できなかった。一方、漢民族に蹂躙された悲惨な過去を持つチベット人たちは、インド人とときに衝突し、互いに悪口を言いあいながらも、なんだかんだと仲良く共存しているあたりは、さすがに海千山千の民族である。2009年には「サンキュー・インディア・50年」という盛大な式典をダラムサラで開催しインドへの感謝を表現している。
ちなみにインドはスリランカやアフガニスタン、ミャンマーなど周辺国からも多くの難民を受け入れている。さまざまな混沌を受け入れ、ときに衝突し、それでも揺らぐことなく発展を続けるインドは、チベットの上をいく海億山億の民族とはいえないだろうか。
そんなインド・ダラムサラに10年暮らしているうちに、異民族の緊張と隣り合わせの生活に慣れてきたような気がしている。自分自身、緊張を少なからず作り出している日本人の1人だという自覚と責任も芽生えてきた。発言や行動、服装には日本にいるとき以上に注意を払い、インド・チベットへの敬意を忘れないようにしている。なんと疲れることかと思うかもしれないが、他人へ迷惑をかけることや、衛生面に対して過度に神経質な日本の慣習がないぶん気楽な一面もある。結局は、方向や形こそ違え、「生きる」ことに対する緊張度の総量はどの国でも同じではないだろうか。いまでは肩の力を抜いて、そんなふうに相対的に考えるようになっている。海億山億、海千山千とまではいかないけれど、彼らのおかげで僕も海百山百くらいには成長したのかもしれないな。
(注)
インド軍で従軍した経験のあるチベット人のみ、特例でタクシードライバーの資格が得られる。
(補足)
海千山千
「海に千年、山に千年すんだ蛇(じゃ)は竜(りゅう)になる」という言い伝えから、世間の経験を多く積み、物事の裏表を知り抜いてしたたかになること。
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