第145回●インジ ~言語のルツボ~

tibet_ogawa145ビクトルの診察風景

ダウンタウン松本人志のコントに「12か国語を話す男」がある。12か国、それぞれの母国語で次々と話しかけてくる彼らに、アドリブで返答(もちろん適当に)していくというもの。2009年、メンツィカンで研修しているとき、よく、このコントを思い出していたものだった。何しろ当時、職員10名の小さな病院にもかかわらず、実に10言語が使用可能だったからだ。
病院の職員全員がチベット語とヒンディー語、英語(チベット語でインジ)が話せるのは当然として、ソナム先生はネパール語が母国語のように話せた。薬剤部のダドゥンさんは小さいころ中国人の学校に通っていたから中国語が流暢で、研修医の僕は日本語、モンゴル系ロシア人の研修医ビクトル(第95話)はモンゴル語とロシア語とブリヤート語を話せた。会計のタシさんは南インドの主要言語であるカルナタカ語を話せた。まとめると、チベット、ヒンディー、英語、ネパール、中国、ロシア、モンゴル、日本、ブリヤート、カルナタカの10言語にも上るが、小さな病院としてはかなり特異であったといえる。

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ソナム先生(右)とデキ先生。日本のホッカイロは喜ばれます

亡命チベット人は国を奪われるという過酷な境遇ゆえに、言語能力を発達させることで環境に適応せざるを得なかった。彼らは一般的にチベット語、ヒンディー語(インド)、英語の三つを不自由なく話せる。そしてその言語的な進化は確実にチベット医学にも影響を及ぼしている。インド・ネパール社会への進出を果たし(第92話)、欧米の研究者たちと対等に英語で議論することで外国への認知度も上がってきているからだ。たとえば前述のソナム先生はインド東北部のカリンポンという街のチベット難民キャンプで生まれた。ここはインドでありながらネパール人が住む地域なことから、チベット、ネパール、ヒンディー語を話すのは自然な流れだった。そしてダージリンにあるイングリッシュ・スクールへ進学し、ほぼ完ぺきな英語を話せるようになった。さらに、もともと言語に興味があったことから、スペイン語、モンゴル語、ロシア語、ドイツ語、フランス語、そして日本語(僕が教えた)において、簡単なあいさつと問診で患者の心を和ませることができるまでになっている。まさにコントのようなアムチである。

tibet_ogawa145ダチュ先生の診察風景

そういえば日本人が病院に訪れたとき、僕が日本語で対応すると、驚きとともに安堵の表情を浮かべてくれたものだった。異国で出会う母国語ほどの精神安定剤はない。病院には欧米人、ロシア人、モンゴル人、台湾人、ネパール人なども多数、来院するが、そのたびに母国語が通じることに感激していたものだった。高度な医学理論や施術などはさておき、言葉で患者を楽しませ、安心させることが何を置いても大切なのである。


ちなみに、僕の英語力はまあまあいけるが、けっして流暢ではない。メンツィカン入学前、チベット語を上達させるべく英語をまったく話せないふりをしていたために、英語はほとんど上達しなかった。しかも、英語ができないことを理由に、たまに開催される欧米人学者による特別授業を堂々とサボっていたのである。そうして英語を話せないふりをしていたら本当に話せなくなるもの。いま、早稲田大学院で英語を学んでいるのだが「英語を軽視してすいませんでした」と過去を懺悔しているところである。

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病院の前でパパイアを買うタシさん(右)とダドゥンさん

ヒンディー語にいたってはかろうじて買い物と注文ができる程度で、10年もインド国内に滞在していたとは思えないほどの体たらく。ヒンディー語を一語、覚えると、チベット語を一語、忘れてしまうのではという勝手な思い込みがあったような気がする。それに、インド人には英語が通じるという甘えがあることもある。そして、結局、ヒンディー語の学習を怠った結果、ダラムサラ以外の分院では役に立たないアムチになってしまった(第26話)。ちなみに、僕だけでなくヒンディー語が苦手な同級生は、やはり現場で苦労し患者数の低下に悩んでいる。

チベット医学を学ぶにあたり言語はとても大切だ。今後、メンツィカンを目指す学生がいたら、僕を反面教師として、チベット語だけでなく英語、ヒンディー語の学習も怠らないようお願いしたい。

(注)僕とビクトルが抜けたいまは、病院での言語数が減っています。

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