ある日、早稲田大学のゼミ室で大学院生が「わたしも小川さんを見習って、本を持ち歩くときはビニールケースに入れるようにしたんです」と話しかけてきた。そして、本が入ったビニールケースを鞄から取り出して見せてくれた。一瞬、僕のなにを見習ったのか事情がつかめなかったが、ああ、そうかと思い当たった。たしかに、僕はいつも本をビニールケースに入れて持ち歩き、大学院での授業のたびに、まずビニールケースを鞄から出して机の上に置き、次にそのなかから本を取り出す行為を続けていた(注1)。こうすれば本が傷むことはないし、雨が降ってきても濡れる心配がない。僕は10歳以上も年下だけれど先輩の大学院生に向かってちょっと照れながら、「この習慣はチベット社会で身についてしまったものなんだ。チベット人は本をとても大事にするからね」と説明し、その場を取り繕ったものだった。
確かに、チベット人は本(チベット語でテプ)をとても大事にする。それは仏教経典だけに限った話ではない。たとえばメンツィカンの同級生たちは医学の解説書を手に入れると、まず、何をさておいても新聞紙など適当な紙を見繕ってブックカバーを上手に作りはじめる。
TCV(チベット子ども村)では教科書は一年ごとに学校から借りて、進級するときに学校に返す形になっているため、必然的に本を大切に扱う習慣性が身に付くという理由もあるようだ。したがって本は公共のものという概念が強い。経典や本を地面に直接置かないのはもちろん、うっかり地面に落としてしまうと「失礼しました」と頭にポンっと当てるのはチベット人ならではの習慣性である。なにしろ経典のうえを靴が通過するだけでも嫌がる顔をする人がいるくらいである。僕が仏教経典をベッドの下のケースにしまっておいたところ、ルームメイトから「オガワがどう扱おうと勝手だけれど、俺のためにも経典は本棚においてくれないか」と懇願されたこともあった。
それは本だけでなく、本のなかに記された知識への敬意であるといえる。そして、本を大切に扱うからこそ知識に文化が宿り、知識人が純粋に尊敬される社会なのだろう。それはちょうど100年前にチベットに渡った多田等観(1890-1967)による述懐からもうかがい知ることができる。私は初め、(お尻を拭くのに)日本から送られてくる新聞紙を使っていたが、チベットの人たちは、どんな文字でも三字以上字の書かれてあるものには、必ず仏があるから、仏で尻をふくとはけしからんという。そこで新聞紙も使えないことになり、石ころを拾ってきて使うと、うまく落ちるようになった。『チベット滞在記』(注2)それほどまでに文字を大切にするチベット社会のなかで10年間暮らすうちに、自分も知らず知らずのうちにチベットの文化が宿っていたようだ。その無意識なまでに内在されていたチベット文化が、これまた無意識のうちに、身近な人に伝播してしまうことに、あらためてチベット文化の-それは身震いがするほどの-底力を感じたのである。チベットの智恵、文化が何百年のときを越えて受け継がれてきた理由を、こんなささいなやりとりから感じることができた。そして、自分がかつてチベット社会で暮らしていたという事実を、まるで他人事のように「はっ」と思い出させてくれたのである。ちなみに、僕がいつもブックケースに使っているのは、何を隠そう、風の旅行社のロゴマーク入りビニールケースである。これが、実にちょうどいい大きさで使いやすい。みなさん、ツアーが終わったら、ぜひ、ブックケースとして活用してみてください。風のビニールケースが「知識を大切にする」チベット文化を受け継いでいくなんて、ちょっと素敵ではありませんか。注1
2013年4月から早稲田大学文学学術院の教育学コースで勉強しています。授業ではルソーの『エミール』や、デューイの『民主主義と教育』などの教育哲学書を学んでいました。40歳を過ぎてから、20代の学生たちと一緒にはじめて学ぶ哲学はとても新鮮です。
注2
多田等観 牧野文子(2009)『チベット滞在記』講談社学術文庫。p.200
小川さんの講座情報
<trong>
【講座】
<iv>