(4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回は「ラダック伝統医を訪ねて」シリーズの第2回です。)
スタンジンの提案でチリング村へ出かけることにした。地図で見ると中心都市レ―の近郊のように見えるが、ザンスカル渓谷の上流へと向かう道のりはかなり険しい。渓谷を切り拓くために爆破したままの岩がゴロゴロと転がっている。慎重に進むこと2時間、ようやく渓谷の奥の、さらに奥にあるチリング村に到着した。人口は約80人。レー行きのバスは週に往復1便だけの文明社会とは隔絶した村だ。なんでも、むかしむかし(たぶん17,18世紀ころ)、ラダックの王様がネパールから彫金師を招聘し、この村に住まわせたことが切っ掛けで、いまなお、ほとんどの家では銅や黄銅の彫金を営んでいるという。
早速、スタンジンは知り合いの彫金師のおじいさんの家へ連れて行ってくれた。何百年も時間が止まったままのような工房だ。文明を感じさせてくれるものは、ペットボトルと我々の存在くらいしかない。ひととおり彫金の作品を見せてもらったなかで、僕は銅製(チベット語でサン)の薬匙を購入することにした。これならば日本でも実用的に使えそうだ。そうして見学が一段落すると、僕はスタンジンの通訳を介して「この村にはアムチ(伝統医)はいませんか」とおじいさんに尋ねた。すると「アムチ・サンポは去年、結核で亡くなったよ。いまは州政府から看護士が派遣されている」と残念な答えが返ってきて、アムチに関する話題はそれ以上の広がりを見せなかった。しかたなく最後に「この先のザンスカルまで道が開通すると便利になりますね」と訊くと、「道が広くなれば畑が狭くなる。なんもいいことはない」と、心の底で期待していた通りの返事が返ってきて、こちらはなんとなく嬉しくなった。
2時間ほど滞在しただろうか。あまり収穫のない一日になってしまったかなと、落胆しつつ車で帰路につくと道端で女性が座っていることに気がついた。彼女はついさっき話題に上がった看護士さんで、これからレーに出かけたいのだという。そして、彼女のおかげで、サンポさんの話はまだ続くことになる。以下は同乗した彼女から聞いた話である。
長年、チリング村の健康はアムチ・サンポさんが支えてきて、村民からの信頼はとても厚かったという。さっきまで我々が話をしていた彫金師のおじいさんは、レーの病院で癌と診断されて、死にいく準備をはじめていたというのに、サンポさんの薬を服用しはじめてからというもの、癌が進行しなくなり、いまもこうして元気にしている。しかし、そのサンポさんが去年、急逝してしまった。
「サンポさんの跡継ぎはいなかったのですか」。僕は当然の問いを彼女に投げかける。
娘がひとりだけで、跡は継げなかった。つい最近、親戚がサンポさんの薬を片づけて、レーにいるアムチに譲ったようだ。だから、チリングにはもうアムチは誰もいない。そう語る彼女からは(現代医学の看護士ではあるけれど)アムチへの敬意がひしひしと伝わってきた。そして僕は会ったことはないのに、思いもかけず、伝統医サンポさんに出会えたような不思議な充実感に包まれながら、きっとこの銅製の小さな薬匙で薬を処方していたのだろうなと空想が広がった。
サンポさんを巡る話はまだ続く。ラダックから帰国の途につく前夜、親友タシ(第137話)の家に招待されて夕食をともにした。タシは現在、インド国が運営するレーにあるラダック伝統医学研究所の一員として働いている。早速、チリングの話題をしたところ、「チリングなら、つい先日、巡回診療に行ってきたところだ」と意外な言葉が返ってきた。アムチの灯が消えた村々には、こうしてタシやロブサン(第178話)といった若手のアムチが巡回、または赴任という緩やかな形で関わりはじめている。これからもラダックの村々にアムチの灯は灯り続けるだろう。
帰国後、小さな薬匙を使い、チリング村を思い出すたびに、いま住んでいる別所温泉(上田市)ですら文明的な大都会のように思えてきてしまうから不思議なものだ。そして、僕は、新しい「銅の匙」の物語りを、ここ信州で紡ぎはじめたいと考えている。
参考
ザンスカルはザン(銅)カル(白)という意味。実際に銅が産出されていたかどうかは、筆者は確認できていない。スタンジンを含め、ザンスカル出身の誰に聞いても「銅が採れたという話は聞いたことがない」と語っていた。
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