(4月23日から5月6日まで、風の日本語ガイドのスタンジンとともにラダック各地の伝統医を訪ねました。今回は「ラダック伝統医を訪ねて」シリーズの第3回です。)
尼僧医パルモさんを訪ねた。メンツィカンの大先輩(第8期生)であり、ラダックからメンツィカンへ進学する道を切り開いた先駆者でもある。僕が自己紹介すると、日本人アムチ(第14期生)がいるという噂を以前から耳にされていたようで、「あなたが、あの日本人!」と胸襟を開いて迎えてくれた。いまはレ―空港の近くにある尼寺で30人近い若い尼僧(チベット語でアニ)にチベット語と仏教の基礎を教えるとともに、小さな製薬工場と病院を構えて診察を行っている。腰を落ち着けて話をはじめると「ラダックでは尼僧は家政婦くらいにしか思われていない」とパルモさんの口調はいきなり厳しい。
実は、チベットやラダック社会における尼僧に対するイメージは決していいものではなく、「言うことを聞かなかったら尼寺へ入れてしまうぞ」は女の子を叱りつけるときの常套句である。チベットに限らず仏教社会はやや男尊女卑の傾向があり、いくら修行をしても僧侶のように高い地位に就くことはできなかった。また、席を同じくするときは僧侶よりも上座に座ってはいけなかったり、問答のときに尼僧が僧侶を質問する側になってはいけない(その逆はOK)という不文律が存在していたものだった。現在ではこれらの問題点をチベット仏教界全体が共有し、ダライラマ法王を筆頭に改善に取り組んでいる(注1)。ただ、尼僧という立場は、障害を持つ女性たちの受け皿としての役割も果たしてきた歴史があり、けっして負の遺産ばかりというわけではない。それがときに社会における偏見につながっていったようだ。パルモさんは、そんなラダックの尼僧の人権問題を改善すべく、メンツィカン卒業後の1996年に「ラダック尼僧協会 LADAKH NUNS ASSOCIATION」を設立したのである。
先輩パルモさんの噂は以前からダラムサラで耳にしていた。ただ、残念ながら、いつも「ちょっと変わり者」という含みを持たせて語られていたことを正直に述べておきたい。それは、メンツィカン在学中の1993年に得度して尼僧になったという経歴に起因しているようだ。在学中、もしくは卒業後に還俗する(戒を返上して俗人になること)ケースは多数あるが(第177話)、その逆の例はパルモさんただ一人である。自ら志願して尼僧になったとき、両親は嘆き悲しみ、しばらくは実家に帰ることすら許されなかったという。しかも、尼僧の人権改善プロジェクトを立ち上げたとき、当初、ラダックの人たちの反応はとても厳しかったそうだ。いわれのない誹謗中傷や嫉妬、差別意識にいたたまれない思いをすることも多かった。そんな苦労話も昔のはなし。いまでは随分と社会からの眼も変わったことをパルモさん御自身が実感されているようで、こちらが安心した。パルモさんは、まず、アムチという立場を通してラダック社会の改善に取り組んだ。そして、社会の基盤が整ってはじめて、いま、まさにアムチの教育を本格的にはじめたところである。
経典
「オガワ、あなたはほんとに縁起のいい日に来た。今日、5月1日は尼僧院に医学コースを開設して最初の授業の日だったのよ」。そういえば四部医典らしき本を手に抱えた尼僧とすれ違い、階下では若い尼僧たちが薬草の手入れをしているのが目にとまった。社会を変革し、医学の歴史がはじまる。僕は、こんな「はじまり」の時代に強いあこがれを抱く。
パルモさんとの話を終えると、お堂にお邪魔して尼僧たちの夕方の読経に参加した。メンツィカンの読経を彷彿とさせるような猛スピードに、遠い旅先のラダックで妙な懐かしさを感じとることができた(注)。そして、若き医学生たちの少しでも助けになればと薬師如来像の前に心ばかりのお布施を捧げて合掌すると、尼僧たちの読経の声に包まれながら、僕たちは夕暮れの尼僧院を後にした。
注1
2012年にはようやく女性の仏教博士号が正式に認可されるなど、大きな変革が進行中である。チベット語で尼僧は敬意をこめて「チォーラー」とも呼ばれる。もしくは文語で「ツンマ」と記される。
注2
メンツィカン医学生の読経は伝統的にとても速く、よく言えば流暢だが、悪く言えば落ち着きがない。本職の僧侶の読経はもう少し落ち着いている。
参考文献 『ラダック尼僧協会会長、ツェリン・パルモ師のこと』インド通信第429号 2014
三浦順子
参考ウェブ www.ladakhnunsassociation.org
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