「死ぬかと思った」。
あれは1994年、信州・野辺山の高原野菜農場でアルバイトをしていたときのことだった。「小川君、マルチの端っこを持ってて」と親方の命じられるままにマルチ(畑を覆う黒いビニール)をつかみ、地面に当ててじっとしていた。親方が運転するトラクターが作動し、マルチを引っ張りはじめた。トラクターの後ろからは何やら液体が噴出されている。そのとき、なにかがおかしいと思ったが、バカ正直な僕はその姿勢のままマルチを押さえ続けていた。すると、く、苦しい……。息ができな…く…なって…。死ぬ……。
「ごめん、ごめん。言ってなかったっけ。クロピクを使うときは息を止めて、顔を上げていないと死んじゃうよ」。慌ててトラクターを降りて、そう語った親方の爽やかな笑顔をいまでも忘れることはできない。
クロピク。正式名称はクロロピクリン。野菜の病気を予防するために土壌に散布して病害菌を抹殺してしまう農薬。いわばキング・オブ・農薬である。液体の比重がとても重く(1.4倍)、したがって散布したときの気体は地表近くに溜まるため、息を止めてできるだけ上体を起こしていなければならない。このクロピク、人体への毒性の発揮システムはサリンと似ている。だから皮肉なことにサリン事件の被害者の苦しみを理解できてしまったのである。
そんな農薬(チベット語でシンメン)と僕とのつきあいは小学校4年、1980年からはじまったと明言できる。なぜなら裏の田んぼから突然、蛍がいなくなったことを覚えているからだ。家の脇を流れる小川を泳いでいたドジョウもいなくなった。夏になると家のなかは有機リン系農薬の甘ったるい匂いで充満していた。小学校4,5,6年生の3年間、育ち盛りにも関わらず、ほとんど身長が伸びなかったのは農薬の影響だろうと僕は推察している。
歴史を紐解くと、第一次世界大戦時、化学先進国のドイツによって毒ガス兵器が開発され、ベトナム戦争の枯葉剤など人を殺す技術が後の農薬につながっていった。つまりそもそもが負の側面が強い産物だといえる。しかし自然界の草木だって農薬を自家製造しているといったら驚くだろうか。たとえば渋味成分のタンニンは虫から身を守るために夏になると植物内における生産量が多くなる。したがって渋くなる。お茶やコーヒーに含まれるカフェインもキハダのベルベリン(第174話)も自己防衛のための成分であり、ある意味、農薬のようなものである。そして自然のものとはいえ大量に摂取すれば人工の農薬や添加物と同じように肝臓を痛めてしまう。もちろん人工的に大量合成された農薬や現代薬は怖い。効果は絶大だが身体には悪影響だ。でも、自然の草木だって同じように怖いと感じてほしい。
だからというわけではないのだが、こんなに農薬に苦しんだわりには農薬や添加物に対して僕は世間の風潮ほどに否定的ではない。無農薬や自然農、有機農業にこだわりが強いわけでは決してなく(第106話)、だからといって畑に農薬を使用するわけでは決してない。ただ、こうして真正面から農薬と対峙した経験があるからこそ、あの時代からみれば、いまは農薬の使用が厳しくなった安堵感がある。大規模農家でアルバイトをしたことで、農薬を使用する方々の葛藤を知ることができたこともある。また、喩えるならば殴りあったボクサー同士に友情が芽生えるように、直接対峙した経験があるからこそ、農薬に対する寛容さが僕のなかに生まれているような気がしている。もちろんクロピクだけはもう御免願いたいが。
ただ、僕は自然でも化学でもなく、それらの概念が生まれてくる以前の社会に憧れている。それはたとえば「森のくすり塾」がある野倉集落の古老たちの思い出のなかにある暮らしだ。農薬や化学肥料を否定的に語ることもなければ、大自然のなかで生き抜いてきたからこそ「自然」をことさら強調することもない。「自然」というイデオロギーが誕生する以前。それは「そうせざるを得ない暮らし」。それしか選択肢がなかったら、そこには思想の対立も葛藤も生まれない。世代を越えてともに生きるために協力しあうしかない。シンプルな営みがそこにある。
冬場の山仕事が一段落し、2017年春、いよいよ野倉での畑仕事がはじまる。去年は鍬で耕したが、今年は耕運機を導入する予定だ。ちょっとだけ進化します。
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