チベット語でニョンパは狂人・変人という意味だが、人称語尾のパが抜けてニョンになると尊敬の念がこもり「学問(仏教)を極めた浮世離れした人」といった語彙になる。おおよそ肯定的な文脈で用いられるが、「世間知らずの学問馬鹿」の意味のときもあり、チベット人でなければ使いこなせない複雑な単語である。そんなニョンに僕が最初に出会ったのはダラムサラ(北インドにあるチベット亡命社会)でチベット語の勉強をはじめて間もない1999年のことだった(第85話)。
テンダル先生は当時40歳くらい。インド・ヴェナレス(バラナシ)にあるチベット仏教大学を首席で卒業し特にサンスクリット語への造詣が深く、いかにも学者という雰囲気を漂わせていた。そんな優秀な先生がたまたま図書館で外国人向けのチベット語講座を担当していた。しかし外国人にチベット語の初歩を教えるのは、さぞ退屈だったようだ。ときに学生たちが分からないのを承知の上で早口でチベット語で話したり、英語ときにはサンスクリット語で雄弁に語りだすので生徒は次第に減っていった。知人に愚痴をこぼすと「先生はニョンだから」と口元に笑みを浮かべながらわざとらしい小声で教えてくれた。
先生は毎朝7時から8時まで図書館の片隅にある薄暗い一室を借りて一般チベット人向けに文学や文法を教える私塾を開いていた。月謝は一人100ルピー(200円)でほぼ無料。レベルの高い授業は当時の僕にはほとんど理解できなかったけれど、そこにいるだけで何かを会得できるのでは、と特別に許可を得て座っていた。松下村塾など黎明期の私塾に憧れを抱いている僕はこんな雰囲気が大好きだ。しかし先生の熱意に生徒がついていけなくなり、いつしか僕を含めて5人だけになってしまった。「釈迦が悟りを得て最初の弟子は5人だった。今日は縁起がいい」と語る先生はさすがに少し寂しそうだった。
先生は日当たりの悪い10畳ほどの小さな部屋に奥さんと子ども2人の家族4人で暮らしていた。ときに先生は戸外で大きな声で仏典を読誦し、ときに先生は考え事をしながら道を歩いている。そんなときは挨拶をしても完全に無視されるが、みんな「先生はニョンだから」とやっぱりわざとらしい小声でささやく。どうやらニョンを語るときの定型作法のようだ。そしてメンツィカン(チベット医学暦法大学)に合格したときは「俺の教え子よ。よくやった!」と顔をしわくちゃにして僕に抱きついてきた。
ところが入学が近づくと「メンツィカンに入るとニョンパになるから気をつけろよ」と頻繁に揶揄されるようになり、自分がニョン側の人間として見られることに戸惑った。まだ語尾からパが抜けないニョン予備軍といった感じだが、なるほどと入学後に納得した。たしかに医学生が八世紀に編纂された医学教典『四部医典』を暗誦している姿はゆっくりと歩きながら、その目が危ういまでに宙を彷徨っている。寮には個室がないので学生たちは校舎の片隅や街灯の下や森の中で暗誦の練習に励まざるをえず、確かに危うい集団のように見える。その姿が常に民衆の目にさらされ複雑な笑みとともに温かいまなざしで見守られている。アムチ(チベット語で医師)として認められるにはニョンパとして民衆から揶揄される通過儀礼を経なくてはいけないようだ。
そして他ならぬ僕もニョンパの一人だったと自覚している。なにしろ服装にはまったく無頓着なために「オガワは日本人ではない説」が学内でまじめに囁かれていた(第115話)。あるときはトゥクパ(第266話)を食べながらも僕の口は確かに四部医典を暗誦していたらしく同級生たちは「オガワがちょっとやべえぞ」と戦慄を覚えていたという。その事実を2009年の卒業時にはじめて教えてくれたのだが僕にはその自覚がまったくない。たぶん定型作法に則って小声で囁かれていたのだろう。
とはいえいつまでもニョンパのままでいるわけにはいかない。まさに気が狂わんほどの暗唱試験(第51話)を終えて卒業すると意識を学問から社会へと切り替える。研修医の一年間はそんな時期にあたり、解放感に包まれつつニョンパの過去を徐々に捨てさり常識人としてのアムチになっていくのである。そうした6年間に渡る成長過程を民衆が見守り、そうまでしなければ修了できないほどに高度な学問であることを民衆は実感する。つまりテンダル先生のようなニョンに敬意を抱き、高度な学問を尊重する社会のなかにこそ、チベット医学が縁起的に(医師と民衆との相互関係のなかに)生起し存在できるとはいえないだろうか。
先生、お元気ですか?
必読参考サイト
ニョンパとは?[LHASA・TIBET]
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