畑の脇に梅の木がある。85歳になる畑の所有者が生まれたときに植樹したというから梅も85歳だ。とはいえ50年近く放置されていたことから2016年、最初に出会ったときは葛の蔓が無数に絡みつき、隣の桑の木に圧倒されて梅の木かどうかもわからない姿だった。そこでとりあえず蔓を除去し、腐った枝を切り落とし、桑の木を伐ってあげると春には白い花が咲き初夏には梅の実をつけてくれた。自分のなかでは「山のなかで倒れていたおばあちゃんを助けてあげたら、お礼に梅をくれた」という鶴の恩返し的な物語が勝手に流れていた。
お店の建築(第193回)がようやく落ち着いた3年目(2018年)の初夏、気持ちに余裕が生まれたのだろう、梅干しを作ってみようと思い立った。上田近辺のお店では好みの梅干しを取り扱っていないという事情もあった。といっても僕の担当は木に登っての採取だけで加工は妻に任せた。都会育ちの妻にとっても梅干し作りははじめてのこと。インターネットで調べ、経験豊富な近所のおばさんに塩梅(あんばい)を訊ね、手探りのままで進めていった。まずは梅を選別し一個一個丁寧に拭いて樽に詰めていく。一ヶ月塩に浸けて、梅雨が明けたらザルの上で天日干しをする。そしてまた樽のなかで半年ほど寝かせた。塩の分量を抑えたい気持ちと、抑えたらカビが生えるのではという心配に悩まされ続けた。そして、はじめての梅干しは自分たち好みの味に仕上がった。大袈裟かもしれないが、古代から受けつがれてきた「おばあちゃんの智慧」をなんとか継承できた、そんな誇らしい気持ちになった。ただ、もしも本当のおばあちゃんから直接学んでいたら、こんなにドキドキすることもなく、もっと自然な形で継承することができたと思う。梅干しに限らず味噌づくり、堆肥づくりなど、寝かせて発酵させるものほど「これでいいのかなあ」と迷いが生じやすく、世襲で学ぶことの効率の良さと有難さを痛感させられている。
明治43年生まれの祖母が縁側で梅をざるに広げていた光景はよく覚えている。軒下には大根が干してあって沢庵を作っていた。赤いトウガラシも干してあって好奇心でちょっと舐めたときは悶絶した。田んぼや畑を手伝うことはなかったけれど祖母が働いているそばで漫画を読むのが好きだった。こうして幼少期に身近に触れているだけで、日常的な連続性のなかにあるからこそ、無意識のうちに大きな影響をうけているのだろう。作り方を学ばなくとも、それは「手作りできるもの」という意識が潜在化され、成長後に最初の一歩を踏み出しやすくなる。だから今回、梅干しを作ろうと思い立ったのは祖母の影響があるのではと、いまさらながらに祖母を思い出した。祖母は97歳、最後まで元気だったが突然倒れて救急車で運ばれた。亡くなる直前、奇跡的に意識を取り戻したときの最後の言葉は「ありゃー、漬けもの仕舞わんなんあかんちゃ(富山弁)」だった。おそらく梅干しか沢庵のことであろう。
漬ける、もしくは発酵させる行為をチベット語で「ニェルワ」といい、漬けものは「ニェル・ツェル(野菜)」、大根の浅漬けはキュル(酸味)ツェルと呼ばれている(注)。ただしチベットに梅はなく、また日本ほどに漬けもの文化は豊かではない。日本と違って乾燥気候なのでカビの心配が少ないがゆえであり、したがって乾物文化は日本よりも豊かである。
初めての梅干しができた翌年の2019年もやる気満々でいたところ、なんでだろう、梅の実が熟する前にすべて落ちてしまった。気候のせいではと思ったが、あいにく周辺では梅の実が豊作とのこと。老木だからもう枯れてしまうのかなと落胆し、梅の苗を二本買って店舗の裏庭に植えた。収穫できるまでまだ6、7年はかかりそうだ。ところが2020年の今年、梅の木は見事に復活して結実し、梅干しと梅ジュースを作ることができた。あらためて調べたところ、老木になった梅は体力を温存するためにあえて果実を落とす年があるという。そうして翌年に力を蓄えておく。なるほど、50歳になった僕も梅の木のように無理をせず、ときには体力を温存することが大切だと痛切に思わずにはいられなかった。ウメおばあちゃん、貴重な教えをありがとうございました。来年は梅の実を期待をしていません。再来年のためにゆっくり休んで長生きしてください。
注
八世紀に起源を有するチベット医学聖典『四部医典』には「日数が経過した大根は重性、涼性で、ベーケンを増加させる(釈義相伝第16章)」とある。