マンダラ(曼荼羅)の呼称は日本ではきわめて抽象的に用いられている。たとえばチベットの仏画全般を総じてマンダラと呼んだり、円と四角を組み合わせたマンダラ風の現代絵画もまたマンダラと称されることがある。そのマンダラ絵画が癒しのツール、もしくは美術品として扱われている。いっぽうチベットではサンスクリット語原義に忠実にキル(中心)コル(周囲)と翻訳された。すなわちマンダラとは中心を持った円輪を意味している(注1)。具体的には聖なる空間の構築という儀礼の場が最も顕著な意味であり、それは秩序だった整然と配置された世界である(注2)。抽象的な存在ではなく、ましてやアーティストが独自に創造できるものでもない。これは宗教に対して抽象的にアプローチする日本文化と、論理的に学ぶチベット社会との違いが象徴的に現れた事例といえる。
チベット密教の儀式の一例を紹介したい。まず参加者に赤い紐が配られ各自が紐で目隠しをする。その状態のままで教えが説かれ、教えに従って各自がマンダラのなかに入っていき、そこで直接教えを授かる様子を各自が観想(観念)する。マンダラ平面図はその際にイメージを助けるものとして用いられる。またチベットでは砂マンダラを用いた密教儀礼が執り行われる。おおよそ一週間かけて護法尊の砂マンダラを作成し完成後に法要を行う。するとその砂マンダラに護法尊が降臨し御加持を与えてくださる。終了後に破壇し砂を集めて川に流すのだが、その砂はきわめて御利益があるとされ、チベット人はなんとか入手しようとする。砂マンダラに限らず、本来マンダラは儀礼が済めば跡形を残さずに処理される存在とされている。北インド・ダラムサラには有名な逸話が語りつがれている。僧侶たちが砂マンダラを作成中、ある者が乱入して完成間近の砂マンダラを壊してしまった。ところが当の僧侶たちはその光景を笑って眺め、彼が立ち去ると何事もなかったかのように壇場をきれいにし再び作りはじめたという。マンダラの構築が修行ならば、それに執着しないこともまた修行の一つとされているからである。
11月23日、四部医典暗誦の儀式「ギュ・ニ」を開催するにあたり(第290話)、医薬マンダラ「薬王城タナトゥク」の構築を心がけた。お堂の正面に薬師如来、右に護法尊カースン・シャロン、左に開祖ユトクを祀る。その御前にナツメグ、サフラン、カルダモンなど六つの良果と薬の王様とされるアルラ(訶梨勒)を捧げる。これらの薬草はどれもタナトゥクの周囲に豊富に育つとされている。そして聴聞席を四角く囲うように、その中央に暗誦者、つまり僕の席を設ける。こうして医薬マンダラを意識した立体的な場が構築された。
しかしながらこの暗誦儀式は密教の儀礼には属さないし、四部医典そのものも密教に属さないことを断っておかねばなるまい。そもそも四部医典は蔵外文献と呼ばれ、仏教経典にさえ属さないというと意外に思われるだろうか。根本、釈義、秘訣、結尾タントラという四部形式は密教のタントラ形式を(率直な言い方をすれば格式を上げるために)模倣したものに過ぎない(注3)。また、自分が密教儀式を執り行える資格があるはずもない。ここでのマンダラとはチベット高僧が執り行う正式なマンダラ儀礼ではなく、正式な儀礼への敬意を前提とした、そうありたいというアマチュア的なマンダラ儀礼の実践である。
厳かな雰囲気のなか暗誦ははじまった。そして暗誦が1時間を過ぎたあたりから周辺から中央、つまり聴聞者から自分への意識が高まっているのを感じはじめた。フッと身体が軽くなり肩の力がぬけはじめる。立ち会っていた多くの人たちがその瞬間を感じたようだ。身体が柔らかく右回りに大きく旋回し、口が勝手に動いていく不思議な感覚が訪れる。聴聞者の一人が手繰っている数珠の音、外で遊ぶ子どもたちの声、風の音などへの聴覚が異常に研ぎ澄まされ、それらBGMが心地よい。約100分後、拍手のなか暗誦を終えて目を開けたとき拍手の向けられている先が自分だとは感じなかった。この拍手が向けられているのはいま、この医薬マンダラ(的な場所)に成立した四部医典の教えに対してである。疲れと興奮はまったくなく、まるで人ごとのように僕もこの場に拍手を贈りたい気持ちに満たされた。
注1,2
元来のマンダラは密教的な修習をする人の清浄な道場として外の世界と区切って、いわば結界をして、諸仏、諸尊の集まった世界に自らを没入してその世界の加持を得るために画かれ、行者がそのなかに身を置いて悟りの世界を体験しようとしたものである。『チベット・上』(山口瑞鳳 東京大学出版会 1987 P332)
注3
『ギュー・シ』はタントラでもなんでもないが、やはり、伝説とするためにタントラ経典の形式をまねて、根本タントラ・釈タントラ・秘訣タントラ・続タントラと四部にして「作タントラ」のなかに分類したものである。(同上 P202)
なお、日本においても江戸時代1822年、宇田川榕菴が西欧植物学を仏典に倣って書籍『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』を編纂している。「ぼたにか」とはボタニカル(植物学)の音写で、書き出しは仏典に倣い「如是我聞」ではじまっている。