「カッコウが鳴いたら大豆を蒔け」ということわざを古老から教えてもらっていた。そしてまさに2020年6月10日の朝、目覚めにカッコウの鳴き声を今年はじめて聞いた。「よし、今日、大豆を蒔こう」と思い立ったのはカッコウのおかげである。大豆の種蒔き時期は毎年悩まされていたのだが、あれこれと悩まずに、言い方を変えればカッコウに委ねることができるので気持ちが楽になる。おかげで昨秋にはいい大豆が収穫できましたよ、ありがとう。もしも不作だったら「おいカッコウ、今回は外れたな」と嫌味の一つでもいってスッキリすればいい。調べたところカッコウなど渡り鳥は往来の時期が比較的一定しているところから農作業の目安になりやすいという。
カッコウはチベット語でクプチュクという可愛い名称で呼ばれている。歌に詠まれるなど日本と同じように身近な存在であり、そういえばメンツィカン同級生の携帯着信音はカッコウの鳴き声だった。チベット古来のボン教においては聖なる鳥とされていたので、そこに由来があるのかもしれない(注)。チベット医学聖典『四部医典』には「夏、鳥の王様カッコウが鳴き始めるとき72日間は火元素が優勢で心臓の脈が走る。カッコウの鳴き声のように太く長く脈打つ」とある。夏、自分の脈に指を当ててカッコウを感じてみてほしい。
豆といえば鳩。一昨年は前庭の栗の木に鳩が巣を作ったので、僕たちは温かく見守っていた。しかし恩知らずとはこのことで6月に畑に蒔いた大豆は鳩に散々に食べられてしまった。鳩の世間ではBed&Breakfasts(B&B)の店として評判になったことだろう。チベット語ではプクロンという。日本や欧米のように平和の象徴などという特別な存在ではない。
「コン、コン、コン、コン」と隣の神社で大工さんが釘を打っているのかなと思ったら、間違いなくキツツキ(たぶんコゲラ)が神社の壁に穴を開けているところである。この行為はドラミングという素敵な名前で呼ばれている。そーっと近づいて写真を撮ろうとするとすぐさま逃げてしまうので悪いことをしている自覚はあるようだ。樹木に穴を開けるのはわかるが、なぜいたずらに神社の壁板に穴を開けるのだろうか。自分の縄張りを主張するためという説があるが、だとするならば僕たちが神社の隣に店を建てたのは彼らにとっていい迷惑だったろう。これ以上、穴は開けさせないよ。チベット語でシン(木)タ(馬)と名付けたのは、木の上を走るその生態をよく捉えている。
店の前の畑はキジのデートコースになっていて僕たちは微笑ましく見守っている。突然「ケーーン」という鳴き声とともに必死に飛ぶので我が家ではキジを総じてケン太と呼んでいる。「キジも鳴かずば撃たれまい」ということわざはすばらしく的確だ。もしも天変地異が原因で食糧難の時代が到来したなら大変申し訳ないが真っ先にキジが弓矢で射られると思うし、かつて弓道三段だった僕の腕前ならば当たりそうな気がする。それまでは思う存分、畑でデートしてください。チベット語ではジャワンという。
冬になると木の葉が落ちて、森のくすり塾の周囲ではいろんな鳥に出会うことができた。先日は青いルリビタキが飛んできた。ヤマガラ、コガラ、シジュウカラ、キセキレイ、ヒヨドリ、カケスもいる。あいにく僕は鳥の分類には詳しくないので初心者用のガイドブックで勉強しているところである。そして名前がわかったらインターネットで検索しカッコウのようになにか実生活に役立つ関係性はないものかと調べてしまう。草でも木でも鳥でも、まずは実用性に重きを置こうとする傾向が僕にはある。でも鳥たちの鳴き声やその姿にただ、ただ癒される、そんな心のゆとりも大切だなと50歳になってようやく思いはじめているところである。ケン太、安心して鳴いていいよ。
(注)
『鳥の仏教』(中沢新一 新潮社 2008)
<参考>
チベット医学聖典『四部医典』では鳥を餌の捕獲手段によって三つに分類している。一つ目は孔雀、ヤマウズラ、ヤマドリなど「爪で地面の餌をほじくりだす鳥」の群。二つ目はオウム、カッコウ、カササギ、ツバメなど「嘴(くちばし)で餌をほじくりだす鳥」の群。三つ目はハゲワシ、タカ、トンビ、フクロウなど「敏速に餌をとる鳥」の群である(釈義部第16章)。とはいえあくまで古典の上での分類法であって一般社会にはほとんど浸透していない。
<写真提供>
(★)の写真は「風の鳥日和」で講師を務めるバードガイドの中村忠昌さん提供です。
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