20歳、1990年の夏、実家のある富山県高岡市から東北大学のある仙台まで600キロの道のりをなぜ自転車で帰ろうと思ったのか、その切っ掛け・動機をまったく思い出せない。それまでまったく自転車に興味はなく、当時はいまほどに自転車ツーリングが流行していなかったにもかかわらずである。それも小学五年生のときに買ってもらったブリジストン五段変速の車体が妙に重くて黒い自転車に乗ってである。推察するに、いままで安全地帯だけで生きてきた自分に刺激を与えて、なにかを変えたかったのではないだろうか。
出発の数日前に20キロほどの遠出をしただけで準備運動を済ませ、かなり大雑把な日本地図だけを頼りに8月9日の早朝4時に出発した。いまにして思えば無謀もいいところであり、母親の心配はそれは尋常じゃなかったと後に祖母が教えてくれた。こうした計画性の欠如は9年後のダラムサラ(北インド。チベット亡命政府がある)行きの際とまったく共通していることに気がつかされる。
まずは国道8号線をひたすら北東に向かい深夜に柏崎駅に到着し待合室で熟睡。翌日、風雨のなかを突き進み三条市の弓道部後輩宅に転がり込んで一泊。そして三日目、いよいよ文字通り旅の山場である山越えに挑んだ。予定では夜には会津に着くはずだったが疲労困憊し大幅にペースダウン。峠を越える前に日が暮れてしまい道端のバス停での野宿を覚悟した。そこに救世主の如く小さな旅館があらわれて一安心、と思ったら営業している雰囲気はまったく感じられない。駄目でもともとの覚悟でお願いすると「すいませんねえ。もう廃業したんですよ」とやんわり断られ意気消沈。「ガックリ」を全身全霊で表現していた、まさにそのときだった。玄関が開いて自転車に乗った大学生が宿を求めて倒れこんできたのである。「宿を営業していたときでもこんなことはなかったよ。不思議な偶然ってあるんだねえ。部屋はあるから二人で泊っていきなさい」と宿を提供してくれた。
おかげで体力も気力もV字回復。翌日、長谷川君といっしょに峠を越え、風を切って一気に下り、大きく右側にカーブを曲がった。すると猪苗代湖が突然、眼前に広がった。その感情の存在にすら懐疑的だった自分が、生まれてはじめて風景の美しさに感動した瞬間だった。確実に自分の中で何かが変わり始めていた。
ちなみにチベット語で自転車はカン(脚)コル(輪)というが最近できた単語である。もともとチベットは自転車はおろか、荷車や馬車のような車輪(チベット語でコルロ)の文化がほとんど発達しなかったという特殊な歴史を有している。さすが、シェルパに代表されるボッカ(歩荷)の文化であるとともに、五体投地に象徴される巡礼の文化だと考えると納得がいく。ただし仏法を説くことを「法輪を廻す」とチベット語で表現するとともに、チベット人は朝夕にマニ車(お経が入っている筒)を廻していることから、仏教の車輪文化はどこよりも発展したことを補足しておきたい。
20歳のときのいまにして振り返れば中くらいの、しかし当時としては大冒険。この旅行を契機として、ときに自転車、ときに徒歩で、つまり自分の力で移動することに喜びを見出すようになった。ダラムサラに暮らしていた10年間はメンツィカンのある山の中腹から、尾根沿いに広がる繁華街まで標高差200mを毎日歩き続けた。ヒマラヤ薬草実習でチベット人たちに遅れをとることがなかったのは、こうして培われた体力のおかげだと思っている。また、四部医典を地道に暗誦する行為は、一歩一歩、歩くことと似ている。そして高速で長時間に渡って暗誦するギュ・スムは、まさに自転車で長距離を駆け抜ける行為と似ていることに、いま気がついた。
旅の四日目、会津のドライブインの駐車場で休んでいると「リンゴをどうぞ」とアルバイト店員が差し入れてくれた。見知らぬ女性からプレゼントを受け取るというはじめての体験にドキドキしてしまった。族っぽい兄ちゃんたちが「頑張れー!」と大声で叫んでくれた。こんな些細なことが嬉しくてたまらなかった。僕は仙台へと続く国道4号線を北へ北へとラストスパートのごとく夢中でペダルをこぎ続けた。この道のずっと先にチベット医学が、そしてさらにずっと先にはギュ・スム(第289話)への挑戦が待っているとは、このときの僕は知る由もない。