第315話 シャンバラ ~仏教楽土~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

メンツィカン(北インドのダラムサラにあるチベット医学暦学院)では毎夕7時から30分間読経がおこなわれる。そのなかに「シャンバラ国への誕生祈願経(注1)」という短い経文が含まれていた。
メンツィカンでの読経風景 2003年撮影 メンツィカンでの読経風景 2003年撮影

仏法が繁栄している北方の国シャンバラ。そのカパーラという都市の宮殿はインドラ神の宮殿よりも大きく四方は荘厳な宝石で飾られ草花の園は天衆界よりも美しい。左右には美しい海が輝き、人々は財宝に恵まれ仏法が栄えている。そして700年ほど経過したときシャンバラ王リクデン・タックポは野蛮な集団を滅ぼし、ついに円満の時が至る。そのとき私は前世の誓言を放逸することなく、従者たちの先頭に立って貴方に追随します。尊王である貴方が風力を有する石の馬に乗り、御手に短槍を持ち、童心を打ち消し、確実に敵を滅ぼすとき私も追随します。色彩豊かな一千万の軍隊、四十万の酔象の大軍、武器を具えた金の馬車と歩兵たち、怖るべきその大軍の中心に貴方は座しておられる。自身の童心を打ち消し、巨象が象を完全に滅ぼし、石の馬が馬たちを殺し、金の馬車は木馬を粉々にする。こうして野蛮人の系譜を完全に断ち切った後に、最初の仏陀による仏法のすべてが再び繁栄する。そして午(うま)年のホル暦2月22日、勇者たちが音楽を奏でながら十万の従者たちとともに現れる。色究竟天(しきくきょうてん)に居していた受容身が顕現するそのとき、私も悟りの境地に至ることができますように。
試訳・部分訳 小川康

シャンバラへの誕生祈願経 シャンバラへの誕生祈願経

シャンバラとは11世紀インドで仏教が滅びんとするときに、未来に向けて放たれた仏教界復活の思想。そのときが訪れるまで肉体と時空を超えたシャンバラ国に純粋な仏教の教えが保存されるという。この予言は密教の最終奥義カーラチャクラ・タントラ(注2)に詳しく記されており、このタントラの潅頂(入門儀礼)を受けると、人は誰であれシャンバラに生まれ変わることができるとされる。通常、密教の潅頂は師から弟子へ秘匿された形式で行われるが、カーラチャクラにおいてのみ在家の信徒でも受けられる規定になっている(注3)。ダライ・ラマ法王は1959年に亡命後、インド各地のみならずシドニーやニューヨークでも潅頂法要を開催し、たとえば2008年に南インド、2011年にブッダガヤで開催された法要には、チベット人を中心にブータン、モンゴルなどチベット仏教文化圏から10万を越える(一説では20万)人々が集まった。

ダラムサラで行われたティーチングの様子(2016年 写真提供:中原一博さん) ダラムサラで行われたティーチングの様子(写真提供:中原一博さん)
カーチャクラ参加者のためのテント群 ブッダガヤ2012 カーチャクラ参加者のためのテント群 ブッダガヤ2012

こう記すと「なんとオカルト的な」と誤解を招きそうなので補足しておくと、年配者を中心に心から信じている人たちもいれば、2006年には「♪俺たちはシャンバラから来たんだぜ。なーんて冗談だよ。シャンバラに行きたけりゃ法王にお願いしな」とふざけた調子ではじまる歌、その名も「シャンバラ」が若者のあいだで大流行しており、世代間で受け止め方には多様性がみられる。ただ少なくとも、この法要を機会に離れ離れに暮らす親戚たちと再会できるという現実的な一面はすべてのチベット人に共通している。なによりも国を失ったチベット人たちにとって、ダライ・ラマ法王を中心に民族のアイデンティティーを確認できる大切な機会であり、結果、来世まで待たずとも会場はシャンバラのごとくチベット仏教色に満たされる。ちなみにシャンバラはサンスクリット語で「最高の楽」という意味。

シャンバラバンド シャンバラバンド

古代の英知が隠されているという神秘思想は、(意外と現実的な)チベット人よりもむしろ欧米人たちの冒険心を激しくかきたてた。シャンバラは20世紀初頭、欧米諸国で注目を浴び、いくつかの小説の題材にもなったのだが、それらはあえてノンフィクションの形式をとることで真実味が増した(注4)。レーリッヒなど多くの冒険家がシャンバラを探索し、1932年にはドイツが調査団を送るほどであったという。

そして、1980年代から欧米において、日本では1990年代からチベット医学が突如として注目を浴びた背景には、シャンバラ思想に準じた神秘思想があったのではと僕は推察している。秘境の国チベットには、きっと未来に生じるであろう難病、たとえば癌やエイズへの治療法が予言として隠されているに違いないと。したがって欧米発で日本に伝わった「チベット医学」は、僕が学んだ現実世界のチベット医学と、まさに次元が異なってしまうのは必然の結果であった(第278話)

カーラチャクラタントラ カーラチャクラタントラ

エンターテイメント的な夢と希望、それはエビデンスを重視する現代医学がもっとも忌み嫌うものではある。そして僕も現代薬学を学んだ影響であろうか、チベット医学の神秘化を否定的に捉える傾向があった。だけど、振り返ってみれば僕だって小さい頃は徳川埋蔵金発掘のテレビ番組に夢中になり、北アルプスの鍬崎山に隠されているという佐々成政の財宝は幼少期からずっと気になっている。なにを隠さずともこの「ヒマラヤの宝探し」は幼少期の「宝探しごっこ」が命名の源になっている。隠されているものに魅力を感じるのは人間の原始的な本性とはいえないだろうか。もちろん、商業主義に偏った軽薄な神秘思想には気をつけなくてはならない。その上で、歴史ある神秘性「シャンバラ」の思想を受容することは、現代医学に不足しがちな人間味というかワクワク感を補完することにはならないだろうか。それもまたチベット医学が内包する重要な特性ではないかと最近は考えるようになっている。

いずれにしても、5年間の学生時代毎夕「シャンバラへの誕生祈願経」を大きな声で読経して(しまって)いた僕は、いまだ潅頂は受けていないけれどシャンバラへの道をすでに歩みはじめているのかもしれない。そして今回の日本語訳を機に、いま再び、毎朝の読経に加えている。来世が少しだけ楽しみだけれど、経文のなかにある戦争への参加はちょっと嫌です。

注1
祈願文はパンチェン・ラマ3世ロブサン・ペルデン・イシェー(1738~1780)によるものである。この日本語試訳は全体の7割の分量に当たる。

注2
カーラチャクラには天文学や身体生理学が記されておりチベット医学教典『四部医典』の内容と一部重なっている。僧侶や学者は潅頂を受けた後に密教学として経典を学びはじめる。ただし一般チベット人は入門儀礼を受けても経典の内容を学ぶことはない。そういう僕も経典を持ってはいるが精読はしていない。日本語では「時輪タントラ」と訳される。

注3
シャンバラは確かに存在するが、普通の意味で存在するのではないと{西欧人に}答えることにしている。『ダライ・ラマ自伝 第12章;魔術と神秘について』(文春文庫 2001)

注4
たとえば『失われた地平線』(ジェームス・ヒルトン 1933年)

参考
「カーラチャクラの教えを通してみる近代のチベット密教」(クンチョク・シタル)外部リンクが開きます
『チベットを知るための50章』(第39章シャングリラの原像 石濱裕美子 明石書店 2004)

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