2008年の研修医時代のこと。病院での診察に慣れ、ようやくアムチ(医師)らしくなってきた五月のある日、ひとりの僧侶が若い僧侶に付き添われて診察室に入ってきた。目がうつろで足取りがおぼつかない。年齢は40代後半だっただろうか。一目で精神に異常をきたしていることが診て取れた。普段は指導医といっしょに診療にあたるが、そのときはたまたま僕一人だった。「どうしましたか」という僕の質問に「ツァム(お籠り修行)に入っていたのですが、最近、心身の調子が優れないのです」と介助人が答える。僧侶の視線は宙をさまよっている。ツァムの修行に入って700日目くらいだという。まずは僧侶の御手をとって脈を診た。しかし、研修医としての未熟さか、外国人ゆえの気おくれなのか、その脈相をまったく覚えていない。「ツァムを中断して下山されてはどうですか」というアドバイスが当然のように浮かぶが、軽々しく口に出していいのか、日本人だからゆえにわからない。ただ、鎮静効果が高いナツメグを主成分とするソクジン十一味丸を中心に処方を組み立てたことだけは覚えている。
「お大事にしてください」とお決まりの口上で見送ったが、見てはいけない密教修行の裏側を知ってしまった戦慄とともに、その日は一日中、心ここにあらずであった。一週間後、介助人の僧侶が一人で診察室を訪れた。「その後、どうですか」という問いに「まあまあです。前回と同じ薬を処方してください」と答えてくれた。僧侶は山から下山し療養していたような気がするがはっきりと覚えていない。
一般的にツァムの修行場は人里離れた山奥にある。北インド・ダラムサラ(標高1750m)では、トレッキングコースの中腹(2500m)にツァムの修行場がある。メンツィカン(医学暦学院)からは歩いて一時間半。十畳ほどの粗末な平屋が一定の距離をおいて建っている。顕教(約10年)、密教(約6年)の学びを修了し、師からツァムに入ることを許された僧侶がロスム(3年)と呼ばれる約1000日のツァムに入る。そのあいだは介助人の僧侶が定期的に食料など必要なものを運ぶ。
以前、ツァムの修行者に謁見したいと日本人旅行客に懇願されて、修行場まで一緒に歩いたことがあった。修行の妨げになるのではと心配したが、知人の僧侶は「基本的に訪問客は誰でも受け入れますよ。それも修行の一環ですし、そもそも民衆とのつながりなくして何のための修業というのでしょう」と、瞑想やお籠りを「一般社会からかけ離れた聖なる存在」として特別視する外国人に対して、やや皮肉を込めて教えてくれたのが印象に残っている。
チベット社会からツァムへと送りだされ、支えられ、そして修行を終えると社会へと戻り、法要、法話や相談事などさまざまな形で民衆へと返礼をする。いうなればツァムは民衆の期待に支えられて成り立っていることに気がつかされた。逆にいえば、修行によって獲得するであろう「特別な能力」を返礼すべき社会をすでに有している僧侶が、ツァムに代表される密教の道を歩む資格を有しているといえるが、その道は前述の僧侶のごとくけっして平坦なものではない。
ツァムの語源は同音異義語の「境界・ツァム」にある。つまり境界を定めて一定期間、その境界内にとどまって修行することであり、境界と期間の定め方にはある程度の多様性がある。たとえばメンツィカン在学中、授業が終わる13時から夜の読経がはじまる19時までは自由時間だが、それ以外は敷地内から一歩も外へ出てはならない校則があった。仮に外へ出ればすぐさま民衆から学校へ通報が入る。こうして境界を定めて勉学に励む文化がチベット社会全体に根づいている。なるほど、チベット人の同級生たちは当然のように門限を受け入れ、ときにはズルをして肩の力を抜くことも知っていた。
いっぽう日本人である僕は、30代にまでなって小中学生のような校則を適用されるのはプライドが許さなかった。恥ずかしながら無断外出で僕は二度も通報されている。そして半年の休学期間を経て復学した3年生あたりからようやく門限を校則ではなくツァムとして捉えられるようになったのだが、それはチベット文化にようやく馴染んできたことを意味していた。
この3年ほどはコロナ禍ということもあり、ときに1週間ほど森のくすり塾の近辺からまったく外に出ていないことがあった。ツァム的な暮らしが身に着いていることを自覚する。とはいえ、あの病んだツァム修行僧を思い出すたびに、あそこまで自分を追い込むことはできないなと、チベット密教への畏怖の念が改めて芽生えてくるのである。
参考文献
「チベット医学と仏教」(小川康 サンガ出版『医療と仏教』2018)
<小川康さんの講座・ツアー>
アムチ小川康さんと歩く