一年間に及ぶ研修がもう終わろうかという2009年3月下旬、病院長が「私がずっと診てきた高僧が遷化しトゥクダムに入られたようだ」と教えてくれた。トゥクダム、直訳すると「聖なる御心」。死期を悟った高僧は、亡くなる前から瞑想修行によってその準備を行う。修業が達成されたかどうかは、呼吸と心臓が止まった後、数日間は瞑想の姿勢が保たれ、しかも遺骸の温もりが失われず腐敗しないことで証明される。密教に属する高度な瞑想修行の一つであり、トゥクダムを成就される高僧はきわめて少ない。
こうした場合、興味本位で拝謁してはいけないという自制心が僕には作動する。チベット社会でどっぷりと暮らしているからこそ、チベット人と同じように振る舞うことを心がけていた。つまり生前には高僧にお会いしたことがないがゆえに拝謁する理由が見当たらない。また「ほんとうだろうか」という懐疑心を素直に自覚するがゆえに、余計に自制心が働く。だからこそ、当初は参拝に訪れる予定はなかった。そんなとき日本の知人が「どうしてもトゥクダムに拝謁したい。いっしょに訪問してくれないか」と強く懇願され、また、僕自身日本に帰国する直前だったということもあり貴重な機会だからと拝謁させていただくことにした。病院長から許可をもらい、カタ(儀礼に用いる白い布)と供物と香典を手にし、メンツィカンのアムチとしての拝謁である。ドキドキする。それはチベット人と密教との厳粛な関係性のなかにずうずうしく上がり込む負い目とでもいおうか。
親族に挨拶をすると奥の部屋へと通された。遷化された高僧には真っ白な無数のカタが積み重なっており、そのお姿を直接拝むことはできない。高僧に僕のカタを加え、合掌し、偈文を唱えるも心ここにあらず。腰が引けてしまっている。そんな僕にはこれ以上の詳しい解説はできない。ただ、トゥクダムという最高の修行法をチベット人全体が理解し、尊敬のまなざしが向けられている。その事実は肌で感じることができた。民衆と密教との厳粛な関係性。寛容なようで厳粛、もしくは厳粛なようで寛容な雰囲気がチベット社会にはある。僕はチベットの密教に対していつも少し距離を置きながら敬意をもって厳粛な空気に接していた。その厳粛な空気を再確認できたという意味において、最後にトゥクダムに拝謁できたことに感謝している。
帰国後、驚くべき記述を『チベット遠征』(スウェーデン人ヘディン 1934年)のなかに見つけた。洞窟の中に完全に籠り、二度と日の目を見ることはないままに瞑想を行うという修行である。息が途絶えるまで、従者が毎日一杯のツァンパとときどき少量のバターを小さな溝を通じて捧げ、6日間、食物に手を付けられていなかったら、そこで修行は終わったとされ、民衆から尊敬の念が捧げられる。40年近くも暗闇のなかで瞑想修行を続けた隠者もいたという。1930年にヘディンによって観察された修行は、おそらく1959年までは存在していたと思われるが、もちろん現代では行われていない。調べたところ日本では「生入定(いきにゅうじょう)」と呼ばれ、明治時代にお一人、生入定されている。
トゥクダムに関しては科学的に脳波などを解析して、真偽のほどを調査する動きが過去にはあった。ただ、僕はこうした調査方法に関心がないというか、チベット社会で暮らすうちに科学的なアプローチに関心がなくなってしまった。そうではなく、トゥクダムや生入定という最高の修行法に対する信仰の存在によって、死に対する認識に大きな影響を及ぼしているのではという点に強い興味をいだいている。死を能動的に受け入れて、生と死の境界をあいまいし、来世への連続性を示す。死は怖れる、怖れないという二元論で語られるものではなくチベット人だって死は怖いであろう。ただ、死を積極的に修行の一つとして受け入れていく、その究極の姿勢が民衆に完全にさらされていることで、やや前向きに「死」を捉えることができるのではと僕は分析している。
仏教を学ぶ最終目標は空性を理解することにある。あらゆる事象は縁起しており無常であるとされる。とはいえ、さすがに目標が高すぎて現実味は湧いてこない。僕が第1段階として期待していることは、「死への恐怖が和らぐのでは」ということであり、第2段階としてそれすらも「期待しなくなる」ことを期待しながら、チベット社会で暮らした10年間を振り返りつつ、いまチベット語で仏教を少しずつ学んでいる。
参考文献
『チベット遠征』(中公文庫 スヴェン・ヘディン著・金子民雄訳)
「チベット医学と仏教」(小川康 サンガ出版『医療と仏教』2018)
お知らせ
2月11日 長野県上田市で「グレート・ジャーニー」の関野吉晴さんと対談イベントを開催します。
(イベントのチラシはこちら)