第321話 テーワ ~有暇~ チベット医・アムチ小川の「ヒマラヤの宝探し」

談笑するメンツィカン学生 2006年
談笑するメンツィカン学生 2006年
チベット人と談笑する筆者 2019年12月 チベット人と談笑する筆者 2019年12月

どんな言語であれ、文化の相違によって通訳が難しい単語はあるが「趣味は何ですか、」という日本語をチベット人に通訳するのは簡単そうで難しかった。

なぜなら趣味という概念がもともとチベット語にないからである。仕方なく「歌とか料理とか得意な仕事は何?」と訊ねると「じゃあ、歌」「じゃあ、料理」といったふうに、興味なさそうに答えてくれることが多く、この話題では会話があまり盛り上がらなかった。ではチベット人は無趣味なのかといったら、たしかに現代の日本的な概念でいえば無趣味だといえる。たとえば絵画鑑賞、音楽鑑賞、美術館巡り、鉄道、映画鑑賞、ジョギング、登山、釣り、カラオケ、読書、スポーツ、古美術収集など、思いつくままに書きだしてみたが、こうしたことに時間と精力を継続的に費やしていたチベット人は思い浮かばない。おそらく日本的な趣味とは、経済的なゆとり、つまり余暇が生まれ、サラリーマン的な生き方がスタンダードになり、仕事とそれ以外の時間の区別がはっきりしたことで生まれてきた概念ではないかと仮説を立ててみた(注1)。いっぽう日本的な会社や仕事の概念が薄いチベット社会においては、仕事のオンオフという概念がないゆえに余暇の概念も生まれにくい。 

在日チベット人の集まりに顔を出したとき、日本人の趣味についてどう思うか訊ねたところ「日本人はなぜこんなにも趣味に力を入れて真剣になるのか不思議だ」という多数の意見があって盛り上がった。チベット人にとっては料理、歌、裁縫など仕事が日常としてあり、それ以外のリラックスするためのものは、あくまでリラックスであって真剣には行わないのが当然と考える。このとき彼らはチベット語で会話しつつも「シュミ」だけは日本語の音写を強調しながら用いていた。確かに「KARAOKE」「KAWAII」と同様に「SYUMI」も日本発祥の世界共通用語になりえるかもしれない。

ルームメイトのネージョル 2005年 ルームメイトのネージョル 2005年

たとえば僕が暮らしていた(2001~2007年)メンツィカン寮において勉強以外の時間に行う気分転換といえば、圧倒的にお喋りが多いというか、お喋りしかやることがなかった。日曜日だけは食堂でテレビが視聴できたのでみんな食い入る様に映画を楽しんでいた。チベット語での書籍といえば仏典関係であり娯楽としての読書は存在しないし、読書が娯楽となる民族のほうが世界的にはむしろ少ないのではないか。一度だけルームメイトのネージョルが画用紙に風景画を描きはじめたことがあった。これがなかなか上手い。「10代のころ、小遣い稼ぎのために絵を描いてカトマンドゥの街角で売っていたんだ」と教えてくれた。

チベット語で余暇という概念は日常的にはないと前述したが、仏教的にはテーワという単語がある。テーワの原義は「緩慢な」であり、テーワ・ゲ(八)は八有暇(はちうか)と日本語に訳され重要な仏教用語となっている(注2)。人間界に生まれ、仏教の広まった土地に生まれ、教えを受ける感受性が具わるなど、八つの「暇」な環境が揃うことで仏法を学べ、そして解脱の機会が得られるとされるのである。他の六道世界においては、天界の神々は恵まれすぎた条件故に仏法を学ぶ意欲がわかず、阿修羅界は戦いに明け暮れ、畜生界は食料の獲得に忙しく、餓鬼界や地獄界はもちろんそれどころではない。したがって暇があれば仏法を学ぶではなく、暇という概念そのものが仏法を学ぶことができるありがたい条件として定義づけられたといえる。事実、チベット人は暇が生じれば読経をし、巡礼をし、真言を唱え、五体投地に励んでいる(第182話)

サンゲ・ドゥングで五体投地する人々 五体投地する人々(ラサ)

そのなかでもメンツィカン学生や寺院の僧侶たちは、民衆を代表して学ぶために十分な「暇」を与えられている。だからこそ日本学生のようにアルバイトで学費を稼ぐ行為は本末転倒な行為として禁忌視される。そして日本語の「暇」の語源が仏教にあることを考えれば、「あー、暇だ」と嘆くならば、暇に感謝をしつつ仏教を学ばなくてはならないことになる。

 思い返せば小学校6年生のときには「ヒマ人チャンピオン」に選ばれたほどに僕は「暇」には深い縁がある(第132話)。そして53歳を過ぎたいま、あいかわらず趣味らしい趣味はないけれど、暇ができればその有難さを噛みしめつつ仏典を読経するようにしている。チベット社会を離れて10年経過し、やっとチベット的な生き方を実践している手ごたえがある。

注1
労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的な労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。(中略)逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。
出展:暇と退屈の倫理学(國分功一郎 新潮文庫 2022年 P178)

注2(関連用語)
有暇具足。仏法を学ぶ機会に恵まれた人間界に生まれた有り難さを表している。チベット語でテー(有暇)・ジョル(結合)という。

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