僕の巻頭言が掲載された別冊太陽「平屋特集」が届いて(前話)、日本に平屋ブームが到来していることを知った。本冊子によると2011年の東日本大震災、原発事故を契機として、物を所有しないシンプルライフが提唱されはじめ、平屋へと志向が回帰しているそうだ。ならば9年前の2016年に10坪と3坪の二棟からなる平屋を、しかも伝統工法で建築していた僕たちは時代の先取りをしていたことになる(第203話)。とはいえ当時そんな選択的意識は微塵もなく、予算の関係で小ぢんまりとした平屋になっただけのこと。そして平屋だからこそ素人の僕たち夫婦でも、屋根や壁仕事を安全に遂行できた。つまり「そうするしかなかった」という前近代的な流れの中で生まれた平屋である。
店が完成した2年後の2018年の冬、僕は山仕事をしながらNHK第2(教育)ラジオをなんとなく聞いていた。すると年配らしき大学教授がたいへん興味深いことを解説しはじめたので手を休め、焚き火に当たりながらラジオに集中することにした。それは昭和の初期、柳宗悦(1889~1961)に代表される民藝運動(注1)が盛り上がっていた時代のはなし。上田恒次(1914~87)は陶芸を志し、高名な河井寛次郎に弟子入りをお願いするが何度も断られた。そこで、窯工房の設計図を自ら作り見せたところ、ようやく許された。そして実際に上田は素人ながらに家屋はもちろん登り窯まですべてみずから築き上げていったという。なるほど、後付けではあるが、森のくすり塾の理念を語るとき、こんな過去の偉人の思想を引き合いにしてはどうかと、そんな下心を秘めつつ、このはなしを心にしっかりメモしておいた。
その4ヶ月後、上田市内で「72時間トーク」という3日間昼夜ぶっ続けの哲学トークイベントが開催され、僕はイベントを少しでも盛り上げるべく72時間のうちのほんの4時間だけ参加することにした。会場「犀の角」に足を踏み入れると参加者たちが大きな円卓を囲んでいて、ちょうど京都出身の若き研究者が座長を務めていた。すると、彼が先日のラジオとまったく同じことを語っていることに気がついた。講義のあいまに、「もしかして、先日のNHKラジオに出演されていた教授のお弟子さんですか?」と尋ねると破顔一笑。「老人のような声だとみんなから笑われますが、あれは私です。林業の方ですか? ラジオを聞いてくれてありがとうございます」。それが鞍田崇さん(同学年なので親しみを込めて先生ではなく、さん)との出会いだった。鞍田さんは論文のなかで次のように語っている
民芸をになった人々はただ工芸作品の作り手やコレクターであっただけではなく、たえずそれらがじっさいに使われる空間を意識し、あるべき空間構成とそこでいとなまれる暮らしの<かたち>の模索をつづけていました。(「木野皿山の夢のあとーライフスタイルとしての『民藝』」より)
「別冊太陽」のバックナンバーを調べると2年前に同じく平屋特集がされていて、偶然にもそのなかで鞍田さんが僕と同じ枠で巻頭言を寄稿し上田恒次邸を紹介していた。八世紀に起源を有する『四部医典』には次のような一節がある。
医師は身、つまり手によって、薬と医療器具を作ることに優れていなさい。口、つまり心地よい言葉で患者を楽しませなさい。意、つまり聡明な智慧で、意識を明晰に保ちなさい。(医師の心得の章)
いまにして振り返ればこの一節に、僕がチベット医学を目指した理由のすべてが込められている。そうか、もしかしたら民藝運動とチベット医学の根底には相通ずる「手作り(チベット語でラクソ・注2)」の思想があるからこそ、あのときのラジオに強い興味を惹かれたのだろう。そして風の旅行社で開催している「暮らしのくすり塾」の本質を“くすり”の民藝運動と表現すれば、日本社会への風通しがいいかもと思いついた。厳しい法律の壁はあるけれど(第185話)、紫雲膏(第267話)、キハダ軟膏、七味唐辛子、お茶、これらを自家用で手作りすることに問題はない。さらにはそこに住む人々、地域社会との関わりを育てることも大切な“くすり”の民藝運動ではないかと僕は捉えている。
注1
民藝品と呼ばれるためには、用途を誠実に考えたものでなければなりません。それには質への吟味や、無理のない手法や、親切な仕事が要求されます。かかる事のみが生活に役立つ誠実な用器を産むからです。
『民藝四十年』柳宗悦 岩波文庫 1995
注2
ラクソは文語的な単語で、会話ではあまり用いられない。実際の会話ではラクペ(手で)・ソンキョ(作ったもの)と呼び、ソプテ(工場で)・ソンキョと区別する。
<参考>(外部サイト)
犀の角 72時間トーク
小川さんの講座
アムチ・小川康さんのオンライン講座
終了講座 《オンライン連続講座》アムチ・小川康さんの~くすり教室~
コメント一覧
相澤里佳2024.10.03 09:13 am
小川康2024.10.07 06:55 pm