いつもこの日だけは特別な緊張感に包まれていた。それは駿台予備校の医系コース(市ヶ谷校舎)で春と秋に二回行われる30分間のランチタイムセミナーである。このセミナーは生物講師の朝倉幹晴先生によって2003年に実験的にはじまり、2009年から「昼食を食べながらお聞きください。申し込み不要で自由参加です」という触れ込みで本格的にはじまった。入学試験にはあまり役立たないけれど、医学部入学以降に役立つかもしれない話に耳を傾けようという趣旨である(注)。2016年を例にとると年間35回開催され、僕を含めて19人の講師が務めた。僕以外はおおよそ大学講師か現役医師、福祉関係者である。たとえば人工妊娠中絶、臓器移植、代替医療についてなど現代的なトピックスが多い。そんななか「チベット医」という肩書は明らかに異質であり、当初は予備校内に訝しがる声もあったというが、それはそうだろう。
20歳前後の若者たちが薬草やチベットに関心はなくて当然。肩書なんてまったく役に立たない。だからこそ原理的な話題を彼らに投げかけるようにした。「そもそも国家資格ってなんだろうか(第268話)」「ナチュラルとケミカルの境目とは(第153話)」「医学や医療に民族性はあるのだろうか」。「頭がいいってどういうことだろうか」「ゼロベースで医療行為が可能だろうか(第186話)」。まだ自分のなかで整理できていない「問い」をあえて語りかけた。医学部という最高峰の受験に挑まんとしている彼らならば、僕が伝えたい曖昧とした思想を脳内で整理して理解してくれるのではという期待があった。
教室にはおよそ100名の学生たち。昼食を食べながら、「この講師はいったい何を伝えたいのだろう」とまっすぐな「まなざし」を僕に向けてくる。僕はたじろぎそうになり、その萎縮を打ち消そうと僕の声はますます大きく、そして早口に、やや大言壮語になる。パワーポイントやレジュメなんて用いないから話は何度も前後する。気が付けばいつもマイクは教壇の上に置きっぱなしだった。話を終えると2、3人の学生が「もっと話をきかせてください」と後を追いかけてくることがあった。そして面談室で時間の許す限り語り合うのは講師冥利に尽きた。いままで医学部を含めた大学で講義をすることはあったけれど、予備校はなにかが違うと感じていた。
僕は予備校生活を経験していない。でも、もしも高校卒業後に浪人生活を送っていたとしたら、その時点で少しだけ視点が広がり、少しだけ充実した大学生活を送り、卒業後は普通に就職していたのではと想像している。寄り道せずに21歳まで突っ走ったことの反動としてのいまがある。いや、待てよ、考えてみれば2009年に帰国して以来、大学講師として声がかかるのを待ち続けているという意味ではいまこそ浪人生活とはいえないか。浪人という不安定な立場だからこそ、あらゆる人・テーマに対して拒むことなく貪欲につながろうとしてきた、というかつながるしか生きる術はなかった。なるほど、だから予備校生たちのまっすぐで多様な好奇心に僕が共鳴できたのではと、いまこうして記しながら納得にいたった。
最初の講義2010年から14年。学生たちの数名は医師となり森のくすり塾を訪れてくれている。都内の講演会に参加してくれることもある。数年ぶりに再会した彼ら彼女らに当時の講義の内容を尋ねると、みんな戸惑ったあとに「よく覚えていません。でも、面白い人がいるなと思ったことだけは記憶に残っています」と答えてくれる。それでいい。僕は、いつの日か、なぜだか、僕を思い出すときが訪れることを、そして、そのときに僕はいまと変わることなく君たちを迎え入れる気持ちがあることを強くイメージしながら語りかけていた。
チベット仏教には埋蔵経(チベット語でテルマ)という伝統がある。教えが時期尚早だと判断したならば、ふさわしい時代が到来したときに発見されるよう、祈りを込めて洞窟や柱の中に隠される。チベット医学教典『四部医典』は8世紀に編纂されたのち、サムイェ寺の柱の中に隠され、西暦1031年にタパ・ンゴンシェによって発見されたとされる。なるほど、いうなればこのランチタイムセミナーの教えは、いつかそれぞれの心の中に発見されうる埋蔵経のような存在なのではないか。未来の医療に、しかも日本各地で、もしかしたら世界レベルで緩やかに変化を与えうる。もしかしたらチベット医学的な医師がほんの少しだけ増えるかもしれない。たとえば農業や林業と兼業する医師(第241話)、普段から道端や登山道の草花に興味を示す医師。PCの画面にとらわれず患者との距離が近い医師(第271話)。資本主義経済から少しだけ距離をおいている医師(第164話)。長期休暇にはチベット文化圏へ出かける医師(第149話)、などなど。そんな遠い未来を想像するとワクワクする。朝倉先生、素晴らしい機会をありがとうございました。
注
ただし、小論文の試験に役立ったことがあるそうです。
追記
ランチタイムセミナーは2024年度をもって終了しました。
参考
「駿台予備校市ヶ谷校舎(医学部専門校舎)と歩んだ25年」(朝倉幹晴 『駿台教育フォーラム第31号』2017年)
朝倉先生との対談動画(外部)
小川さんの講座
アムチ・小川康さんのオンライン講座
《オンライン連続講座》アムチ・小川康さんの ~チベット医学・薬草紀行~(全4回)