小さいころお化け(チベット語でドンディ)が異常なまでに怖かった。富山の実家は田舎特有の作りで廊下が長い。昼間はそこで野球やボーリングをして遊ぶのだが、夜になると恐怖の回廊めぐりへと姿をかえ、トイレに行くときはいつも命がけだったのを覚えている。いまこうして生きていることを思うと、なんとかお化けに捕まることなく無事に逃げ切れたのだろう。あの廊下の闇の先から何かがやってくるような恐怖感は今も脳裏に焼きついて離れない。だからだろうか、夜にメンツィカンの寮の長い渡り廊下を通ってトイレに行くときは少し小走りになってしまったものだった。
それは信仰心の厚い祖母の布団の中で育ったせいかもしれない。因幡の白兎など昔話と一緒に「悪いことをしたら地獄に落ちますよ」と何度も語り聞かせてくれていたものだった(第23話)。その地獄が意外と身近にあったから余計に性質が悪い。ふるさとの高岡大仏の台座部分は薄暗い回廊になっていてそこには恐ろしい地獄絵図が張られているのだ。怖いくせになぜかいつも絵図に見入り、その夜は一層の恐怖にうなされることになった。そのほか、ふるさとでは地蔵祭り(第81話)や左義長などが行われ、浄土真宗だか神道だか区別はつかなかったけれど、様々な古い風習に触れながら育っていった。
そのおかげだろうか、今になって振り返ってみると、同世代のなかでは僕は比較的、信仰心が強い方だったように思う。たとえば26、27歳のころには道端に佇む道祖神めぐりに出かけていた。信州では道祖神をたくさん見かけることができる。特に上田市の修那羅峠は「お修那羅さま」とも呼ばれ山道に道祖神がズラリと並ぶ。もうすでに輪郭がぼやけようとしている石仏に対し帰依の心というよりは親近感を強く感じたものだった。道祖神の男女が手を取り合って微笑んでいる姿は、見ているだけで心が和む。「仲良くしましょうよ」というメッセージが明確に伝わってくる。
そうして日本では「眼に見えない何か」に無意識のうちに畏怖を感じ取るともに、宗教を素朴で身近なものとして接していたせいだろうか、ダラムサラではじめてチベット仏教に触れたとき、その絶対的な存在に抵抗を感じずにはいられなかった。荘厳な仏像よりも、輪郭のはっきりとしないお地蔵さんのように曖昧なままが自分には居心地がよかった。だから、チベット仏教の勉強にはあまり力が入らず、仏教担当のテンバ先生から「なぜオガワは医学の勉強は頑張るのに仏教は勉強しないんだ」と何度もお叱りを受けていたものだった。年に3回行われる仏教の定期試験ではいつも30点前後の赤点でクラス最下位が僕の指定席なのである。小さいころから培われた宗教への親しみを言語化し、学問社会の中へ招き入れたくはないと意地を張っていた。ダラムサラで年に4.5回開催されるダライラマ法王のティーチングにも出席することはなく、天邪鬼な僕は、むしろそれを自慢していたものだった。
しかし、2007年にメンツィカンを卒業後、心と時間に余裕ができ、冷静にチベット仏教に対する反抗心の原因を分析してみることで、はじめて自分の中に越中富山の浄土真宗や民俗信仰が深く根付いていることに気がつかされた。そして、自分の無意識の中に眠っていた宗教の原風景を意識し整理できたことで、チベット仏教を学問・信仰として受けいれることができるようになったのである。ようやく、ドンディ(お化け)の呪縛から解放され、宗教の階段を一段上がるときがきたようだ。
2008年3月には初めてティーチングに全日程、参加してその意欲を示した。そのとき通訳のマリア・リンチェンさんがお寺で僕を見つけて「なんてこと。小川君がティーチングに来ているなんて大変よ。明日は雪か霰か、槍が降ってくるからみんな気を付けてね」と大騒ぎしたのは本当の話である。なにしろダラムサラ生活9年目にして初めてのことだから無理もない。
また、卒業してからようやく仏教経典の暗誦に取り組むようにもなった。メンツィカンの学生たるもの、朝夕1時間にわたる仏教の読経(文殊菩薩や般若心経やターラ菩薩など)もすべて暗誦できなくてはいけない。しかし、当時の僕は3分の1ほどしか暗誦できていなかったのである。やはり、やり残した人生の宿題は、いつか片づけないといけないのだろう(第4話、第78話)。そう、心の中で微笑みながら、2012年のいまも仏教を学び続けている。テンバ先生、ご安心ください。やっとやる気になりました。
追伸
僕がティーチングに参加しても雪も霰も降りませんから。一緒にダラムサラに出かけてチベット仏教を学びませんか(でも、偶然にも雪や雹が降ったら御免なさい)。
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