チベット医学文化圏(注1)の一つ、それがこの夏に初めて訪れるモンゴルである。モンゴルとチベットの歴史は古く13世紀まで遡る。元の皇帝クビライ・カンがチベット仏教に帰依し、チベットと「施主と帰依拠」の関係になったことからモンゴルでチベット仏教が広まった。それに付随してチベット医学も伝わった。十七世紀には清朝がチベット仏教を優遇したおかげもあり『四部医典』のモンゴル語訳が完成。これが外国語訳の第一号である(注2)。そして1961年、四部医典がモンゴル語から日本語に重訳されてはじめて日本に伝わっている(注3)。その内容を読むと、日本語訳とチベット語原文が見事に一致していることから、その間を取り持ったモンゴル語訳が正確であることがわかる。しかもチベット語原文と同じく詩文形式で訳されていることは驚きに値する(第221話)。しかし、20世紀に入りソ連の社会主義政策に伴って伝統医学は急速に衰退してしまう。1991年のソ連崩壊後、旧ソ連からの物資の供給が激減したために医薬品が極度に欠乏し、このときモンゴル伝統医学が見直されたという。そして現在、首都ウランバートルにはモンゴル伝統医学院があり、医学生たちが四部医典のモンゴル語訳を学んでいる。
その医学院から特別聴講生としてメンツィカンに派遣されていたのが同級生のプルプ・ドルマちゃんだった。モンゴル人にはチベット語に由来する名前が多く見られ、プルプは木曜日、ドルマはターラ菩薩を意味している。彼女は背が高くて荒川静香にそっくりの美人さん。いつも派手に立ちまわる僕とは正反対に、いつも静かに、あまり目立たないようにチベット人のなかで5年間を過ごしていた。モンゴル人は入学試験は免除されるとはいえ(第95話)、いっさいのハンディキャップなしでチベット人学生たちと競い合い、ヒマラヤ薬草実習に参加し、四部医典を暗誦しなければならない。だからこそメンツィカンを卒業して帰国すれば「本場でチベット医学を苦労して学んだ」として民衆から高い評価を受けるのは、モンゴルだけでなくブータン、ラダック、ムスタンなど他のチベット医学文化圏と同じである。
彼女とは在学中は同じ教室にいながらあまり話さなかったが、卒業後、研修医として同じ病院で働いたことがきっかけで仲良くなった。ある日、彼女は午前で診療を切りあげて早退した。敬愛するモンゴルの高僧が海外へ説法にお出かけになるからだというが、理由はお見送りのためではない。高僧がデリー空港を飛び立ち他国に着陸するまでの数時間、万が一にも事故がおきないように、在住モンゴル人がお寺に集まって飛行中、ひたすら真言を唱えるからである。モンゴルとチベットの間にはこうした仏教を基盤とした共通理解が根ざしている。日本では早退の理由としては受理されないことは明白であり、したがって日本のチベット医学文化圏への参入はまだまだ無理なのである。2009年に研修を終えて、お互いの母国に帰国後はまったく連絡を取っていない。もしかしたら今度の旅でドルマちゃん、いや、ドルマ先生と再会できたらと期待している。
薬草はモンゴル語でシャラ(黄色)モト(木)、チベット語でケルパ(第32話)、日本名ではメギに注目している。戦前、諜報部員としてモンゴル、そしてチベットに潜入した木村肥佐生は著書『チベット潜行十年』の中でモンゴル人がシャラモトを目薬として用いていたことに言及している(注4)。また、モンゴル語でシヒル・ウブス、チベット語でシンガル、日本語で甘草は、是非とも出会いたい薬草である。漢方、チベット医学だけでなく現代医学においても有効成分グルチルリチンは胃潰瘍、肝炎などの薬として汎用されている。僕は30年前、東北大学薬学部の薬草園で観察しただけで、自生している甘草に出会ったことはまだない。日本にもヒマラヤにも生育せず、ウイグルから内モンゴルにかけての砂丘や草原地帯にのみ生育する貴重な薬草である。甘草が甘草らしく生えている場所、そこで甘草から呼びかけられるように出会い、根を掘り取り、その独特な甘味を味わってみたいものだ。
きっとモンゴルの伝統医学は、チベット仏教、四部医典、遊牧、草原、民謡、弓、相撲などのなかに息づく、“おおらかな”性格を具えた伝統医学ではないかと想像を巡らせている。チベット医学とは関係なくモンゴル遊牧民に独自に伝わる医療もあるだろう。そんなことなどを大草原のまんなかでモンゴルのバリアチ(僧医)と語りあうのを楽しみにしている。
注1
筆者による命名。八世紀にチベット語で編纂された四部医典を医学聖典として医師が教育され、教典に則した薬が合法的に処方される中央アジア地域。チベット、ラダック(インド)、ネパール、ムスタン、ブータン、ブリヤート共和国(ロシア)、カルムイク共和国(ロシア)、トバ共和国(ロシア)が挙げられる。
注2
ロシア語訳が20世紀初頭、中国語訳が1980年頃に完成している。そのほか近年、英語、フランス、スペイン語訳などが散文形式で出版されている。
注3
釈義タントラの第11章まで(四部医典全体の7%)が散文形式で日本語訳された。『龍大西域資料中のチベット醫學文献の残葉』(芳村修基 1961)より。
注4
木村は1922年(大正11年)に長崎県佐世保に生まれた。昭和14年にモンゴルに渡りモンゴル語を修得する。昭和18年からチベット地域の調査のためにモンゴル人巡礼者ダワ・サンポの偽名を用いて潜行。日本の敗戦をラサで知ることになる。本書は昭和25年に日本に帰国するまでの12年間にわたるモンゴルとチベットに関わる詳細な記録である。
関連書籍
『チベット潜行十年』(木村肥佐生 中公文庫 1982)
『仏教医学の道を探る』(難波恒雄 小松かつ子 東方出版 2000)
『モンゴル医薬学の世界』(デレゲル 出帆新社 2005)
関連話
第95話 第118話
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