メンツィカンの病院から歩いて10分、急な階段を下った閑静な森のなかに入院病棟ネ(病)ソ(治す)カン(院)はたたずんでいる(注1)。80mほど病院との高低差があることから、年配のアムチたちは回診を敬遠しがちではあるが、僕は気分転換がてら(といっては患者に失礼だけど)指導医の回診に同行するのが好きだった。そんなある日、ソナム先生から直々に声がかかった。
「オガワ、入院病棟へ回診に行くから付いてきなさい。末期の肝臓癌患者が入院したらしいの。でも、もう、余命は数日かもしれないわね」
そして、少し神妙な面持ちの先生の背中を追いかけながらネソカンに向かった。病棟のベッドの上には痩せ細った尼僧が寝ている。おそらく身寄りがないのだろう。傍ではお坊さんが大きな声で読経を続けており、まるで生前葬のような雰囲気の中、先生と一緒に恐る恐る脈を診た。弱い、ただ、それだけのことが分かっただけで、僕は尼僧の左腕をそっと胸の上に戻してあげた。先生の問診に、尼僧はか細い声で精一杯答えている。この状況で自分がオドオドしてしまうのは、普段から「死(第162話)」に向き合えていない日本人だからだろうか。尼僧は一週間後、安らかに旅だった。ネソカンはこうしたホスピス的な役割も果たしている。
ときには一人で回診にでかけたこともある。「タシデレー(こんにちは)」と元気に挨拶をすると他の患者たちはベッドから笑顔だけで挨拶してくれた。ところが一番奥のベッドに寝ていた若いお坊さんだけはベッドから慌てて立ちあがると僕に敬意を示した。こう記すと美談に映るが、実はこの真面目さこそが彼の病因なのだからけっして褒められない。彼はお寺で修行に打ち込んでいたが、あまりにも勉強に集中しすぎたために心のバランスを崩してしまったのである。片時も経典を手放そうとしないほどだったという。したがって病棟には経典を最低限二巻だけ持ちこむことを許可したのだが、僕が行ったときも経典を開いていた。大概にしてチベットのお坊さんは真面目に勉強しているようで、意外とよく遊び、息抜きが上手である。その内情は映画「ザ・カップ(第113話)」を視てもらえばよくわかる。しかし、彼はある意味、チベット人らしくない真面目すぎるお坊さんなのである。
「体調はどうですか」
「はい、おかげさまで、だいぶんよくなりました」
「引き続き真珠のお薬、ムティク25を出しておきますね」
彼の脈を診ながら問診をする。あいかわらず真面目な話しぶりだ。そうそう人間の性格なんて変われるものではない。彼は1カ月ほど療養すると南インドのお寺へ帰ったけれど、ネソカンでの療養が少しは気分転換になっていたら幸いなのだが。
ちなみに入院病棟は三食付きで無料(注2)。しかも当時は普及していなかったテレビが置いてあったので、けっこう患者たちの居心地がよさそうだった。したがって、ときには偽の診断書を持ち病人のふりをして宿代わりにする不届きなチベット人が、ごくたまにいたけれどそれも御愛嬌。懐の深いダチュ院長は2,3日の猶予をあたえてから優しく追いだしていたものだった。
半身が自由に動かないおじいさんは半年近く入院していたので、すっかり友達のように仲良くなった。彼もたぶん身寄りがなかったと思う。骨にまで届くかという深い鍼治療や薬草浴などネソカンではいろんな施術を実践しやすい。そうした治療の甲斐あってか、半年後には自力で屋外を散歩できるまでに回復した。入院病棟での集中的な治療が効果を上げた顕著な例として僕の心に刻み込まれている。そもそも、常駐の看護士タシが投薬の管理をしていることから、ネソカンの患者たちは純粋なチベット医学治療を受けることができ、その効果をはっきりと見て取ることができる(注3)。
入院病棟の窓から森を眺めるとリスが枝を走りまわっていて心がなごむ。看護士タシの息子たちが病棟を走り回ってはお母さんに怒鳴られている光景も、どこかチベット的でほのぼのさせられる。質素な施設だけれども、お金の心配をせず、メンツィカンが両親のように養ってあげる。チベット医学の根底にこうした温かい伝統がいまなお流れていることをネソカンで感じることができる。
注1
もともと結核患者のための療養所・サナトリウムだった施設をメンツィカンが借り上げたことに由来している。
注2
ネソカンはチベット人患者(ラダック、スピッティなどチベット系民族を含む)に限られています。外国人はデレック病院(第41話)で入院できます。
注3
一般患者は薬を飲み忘れたり、アムチの助言を無視して自宅で暴飲暴食することが多々あるため。
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