メンツィカン入学前の2000年5月、故難波恒雄先生(第94話)の薬草調査に同行してウイグルを訪れたときのこと。中心都市ウルムチの街の一角に生薬の袋をズラッと並べて売っている人がいるのに気がついた。これは「八十袋屋(ウイグル語でセキサンハルタ)」と呼ばれる、ウイグル特有の生薬売りの形態だという。八十というのはウイグルにおける「たくさん」の代名詞だろうか。地元の人が来ると、生薬袋の中央に座っているおじさんが長い柄杓を操って生薬を集め、大きな薬包紙のようなものに包んで渡している。その姿が美しくて、ついつい見とれてしまった。通訳をお願いしたところ、風邪に効く生薬を調合したところだと教えてくれた。
八十袋屋は代々、世襲で受け継がれており、ウイグル伝統医学や現代医学など資格医療制度とは異なる存在であるという。事実、医者や薬剤師というよりは、むしろ職人の誇りのようなものが伝わってきた。そうして見学しているあいだにも、次から次へとお客さんが訪れる。生薬を扱う姿がウルムチの街の一部に溶け込んでいる。彼らはけっして難病を治す奇跡の医者ではない。しかし、きっと八十袋屋のような生薬の専門家が民衆に根差しているからこそ厳しい自然環境にも関わらずウイグルの人たちは長命なのかもしれない。僕もこんな道端の生薬売りになりたい。このとき、そう願ったのを確かに覚えている。
そんな僕のあこがれが時を超えて徐々に具現化しつつある。たとえば2012年3月、僕のふるさと富山県高岡市の隣、氷見市で開催された、その名も「ヒミング」でMy薬草茶講座を行ったときのこと。会場は素敵な喫茶店。2年前に閉店したというが、明日からでも開店できそうなくらい管理が行き届いていて、がぜん、やる気が湧いてきた。コの字型のカウンターに薬草をズラリと並べてお客さんの来店を待ち受けた。気分はすっかり薬草喫茶のマスターだ。そして、講座が始まるとカウンターに座ったお客さんの症状を聞きながら、それこそ八十袋屋が柄杓で薬草を集めるように、木のスプーンで薬草を集めてオリジナルの薬草茶を一人一人、作ってあげた。地元の氷見で採れたハトムギに、小諸で採取した薬草をブレンドしていく。講座のお客さんの他に、通りすがりの人が「何をやっているんですか?」と店の中をのぞいてくれる。これもまた嬉しい。小諸でもそうだけれど、僕は駅前の賑わいが大好きだ。ときには自然の中に溶け込むのもいい。でも、普段はありふれた社会の営みの一部でありたいと願っている。果たして今日、僕は氷見の街の風景に溶け込めただろうか。
また、信州・小諸の自宅には百味箪笥(ひゃくみだんす。生薬を収める)を置いて「薬草研修センター」の名にふさわしい環境を整えている。信州特産『百草丸』という薬の名前からもわかるように、八十ではなく日本では百が「たくさん」の代名詞として用いられるようだ。その昔、村の薬屋さんには必ず百味箪笥があり、この引き出しから生薬を取り出して配合していたという。僕も早速、引き出しの中に小諸高原で採取した薬草を詰めて見る。開けたときに香りとともに薬草が顔を出す、その瞬間がいい。
さらに時を同じくして知人宅から薬研(やげん。生薬を細かく摺り潰す)を譲り受けた。最近はお客さんがくると真っ先に百味箪笥と薬研を見せて自慢しているこの頃である、将来は包絡(ほうらく。生薬を焙じる)や専用の薬缶(やかん)もそろえ、江戸時代の薬師(くすし)のように歴史ある小諸の街に溶け込みたいと思っているところである。
ラサにて
ちなみにチベット社会には「八十袋屋」にあたる特別な呼称はないが、あえていうならば、我々アムチ(チベット医)がそれに当たる。アムチというモンゴル語で医者という呼称が使われるようになったのは比較的、近年のことで、本来はチベット医のことをメン(薬)パ(人)と呼ぶ。生薬が配合された200種類の丸薬を朝昼晩と自由自在に組み合わせて処方する姿はその名にふさわしい。
富山では薬草喫茶のマスター、小諸では江戸時代の薬師。チベット社会ではアムチ。僕は場所や環境によってその姿や肩書を変える。ただ、薬草を通じで街の人たちと触れ合い、街の風景の一部に溶け込むことで人々の健康に寄与したいと願うことは、2000年のあのときからずっと変わっていない。ウルムチの街角で八十袋屋に出会ったときに抱いた憧れの心象は、僕の人生における大切なランドマークとなっている。
(参考)
ヒミングでのMy薬草茶講座の様子はこちら
→ http://chikyu-no-cocolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-1547.html
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