第161回 チャイ・セタク ~ドラッグストアにて~

ドラッグストア(イメージ)

退学を前提に、2004年6月、とりあえず休学という形でメンツィカンを飛びだして日本に帰国したものの、さて、これからどうしたものかと悩み続けていた(第60話)。医学部への学士編入、鍼灸学校への入学、漢方系の薬局への就職。しかし、どれもこれもしっくりとこない。

そんな暗中模索のなか、京都に途中下車して知人と散歩をしていると古い貸間の広告が眼に止まった。外国暮らしのせいか日本的な風情に感動しやすくなっていたこともあり即座に決めてしまった。別に京都に住む理由など何にもない。ただ、もう悩みすぎて疲れ果てていた。さらにその日のうちに近所で「薬剤師募集中」の張り紙を見て「ここで働くよ」と決めてしまう段になると、知人は驚きを通り越して呆れていたものだった(第31話)。

そしてはじめての貸間での夜、布団も何も無く寝苦しい中で、僕は唯一持っていた本を開いて音読し始めた。それは『四部医典』と呼ばれるチベット医学の教典であり、自分の存在を証明してくれる唯一のもの。そうまでしなければ堪えられないほど精神的に追い詰められていた。

それでも久しぶりの日本社会復帰はとても新鮮で、毎日が新しい勉強の連続だった。現代的なドラッグストアにいると5年間(1999~2003年)のダラムサラでの生活がなかったように感じるということは、人間の思い出なんて都合よくできているのだろう。日本を離れる前にも農業をしながら長野のドラッグストアで働いていたが、あの長野での一場面がそのまま京都に繫がっているような、何も自分は変わっていないような不思議な錯覚に囚われる。思えば、あのとき薬剤師として力不足、勉強不足を痛感し、チベット医学を目指したのではなかったか。いや、あえていうならば「もっと成長しなくては」という力みが抜けて心と体が軽くなったことだけが、自分がダラムサラで暮らしていたことの証なのかもしれない。

仕事に慣れてきたころ、商品整理をしながら成分表を見ていると面白いことに気がつきはじめた。『四部医典』に書いてある処方がドラッグストアにはたくさんあるじゃないか。


胡麻

たとえば「ルン(気)の病には胡麻が特効薬である(論説部第30章)」、と書いてあるが、セサミンなど胡麻の健康補助食品はドラッグストアの人気商品である。

17世紀の四部医典絵解き図に
描かれた鶏冠

「鶏の冠血(チベット語でチェイ・セタク)は肉をつくり、骨を充実させる(論説部第20章)」とある鶏冠(とさか)からはヒアルロン酸が抽出され、肌の保湿成分として多くのお化粧水に配合されているほか、眼の角膜保護剤としても用いられている。

チベット医学の特徴とされる鉱物薬も見つけることができる。鉄、カルシウムなど鉱物はサプリメントとして並び、「銅は膿血を乾かし肺と肝臓の熱を癒す(同上)」の銅は胃粘膜保護剤(サクロンなど)として、亜鉛(第32話)は傷薬や大学目薬に用いられている。

硫酸銅

「硫酸銅はデキモノを治す(同上)」の硫酸銅は「蛸の吸出し」という塗り薬に。

硫黄

「硫黄は膿血を乾かす(同上)」の硫黄はニキビ薬「クレアラシル」や入浴剤として私たちの健康を支えてくれている。「真珠は脳の傷と毒の病を癒す(同上)」の真珠は救心や六心丸に配合され、「珊瑚は肝臓と脈管と毒の熱を癒す(同上)」の珊瑚はドロマイトというサプリメントになっている。
ヒマラヤの野イバラ(第34話)やイラクサ(第17話)は和漢薬配合化粧液に用いられ、しかも日本人の体質にあうように研究されている。ただし、ドラッグストアの薬にはチベット仏教の法要による御加持が込められていない点を忘れてはならないが。いや待てよ、真言・ダラニの名前がついた薬、その名も陀羅尼助があるではないか(第36話)。そしてチベット医学の理論を応用しつつ日本の薬を販売するようになっていったのは本当の話である。

四部医典に記された処方が現代薬で実践されているのはなぜだろうか。そんな疑問を抱いたことで、むしろチベット医学への興味が改めて湧き上がってきた。以前はチベット医学に新しい知見を求めていた。しかし、いまは、そこに現代医学の源流を感じ取っている。西洋、東洋を問わず薬の源流を探ってみたい。そんな探索心が半年後に僕をふたたびダラムサラへ向かわせたといってもいい。
温故知新。薬がどこからきたかを知ることは、これから薬がどこへ向かっていくべきかのヒントが得られるかもしれない。つまりチベット医学は今後の薬学界の指針になりえる暗号が隠されているとしたらどうだろうか。さあ、みなさん、ドラッグストアにチベット薬を探しにいきませんか。


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