一年前、2015年1月8日に修士論文を提出し、晴れて早稲田大学の文学学術院を卒業し文学修士号を取得した。薬学学士+文学修士の組み合わせは、日本人+チベット医の組み合わせと同じほどに、マニアックな価値があるのではと自己満足している。
「小川さんはいつも文章を書いているから大丈夫でしょう」とよく言われたが、こうして執筆しているエッセーと学術論文は似て非なるもの。むしろ「ふんわり」と描くエッセー調に慣れてしまったがゆえに、「である」調への思考の変換には、かえって苦労を要した。それでも、指導教授や10歳以上も年下の先輩たちに助けられながら、最後は2日間、徹夜し、期限である1月8日15時のわずか2時間前に、駆け込むように修士論文を提出することができた。
論文の題目は『薬教育に関する総合的研究 ~薬文化を歴史・社会・自然で育む~』というもの。内容をあえて論文調で説明すると、すべての人が薬とつながる意識を育み、また、生活レベルで薬の文化を育んでいくことができるはずであるという問題意識を踏まえたうえで、総合的な薬観に立つ薬教育のあり様を検討し、問題を提示するだけにとどまらず、理念とともに具体的な実践案を示すことを目的とするものである……とまあ、我ながら高尚な文章を書けたものだ。論文の主旨を噛み砕いて説明したい。
先回りして断っておくと、チベット医学や伝統医学の効果効能を強調するものでもなく、健康法を指南するものでもなく、現代薬の副作用を批判するものでも決してない。問題としているのは、薬を作る営みが一般民衆からほぼ失われつつある日本の現状である。繰り返すが、それは薬がケミカルだ、ナチュラルだという議論では決してない。また、185、186話で指摘したように、たしかに薬の法律の厳しさは問題の一つであるが、政府を批判することが本論の主旨ではない。なぜこのような状況になってしまったか、薬の歴史を振り返り、納得し、まずは、一人一人が薬を作る営みをはじめてほしいという問いかけである。昔に戻れというのではない。薬が発展し、それがすべての人のものになってほしいことはいうまでもない。だがそのことと、薬を誰かに任せることとは別である。人まかせにしていれば、やがて薬そのものも、われわれのためのものでなくなってしまうだろう。
電気を例にあげてみたい。3.11原発事故以降、自分たちで電気を作ろうという動きがみられる。自分たちで考えて市民活動を起こしている。それは、小中学校の理科の授業で電気ができる仕組みをしっかりと学んでいたからではないだろうか。原子力であれ風力発電であれ、作られる電気は同じであることを知っており、電気は自然から生み出されるものだと知っている。確かに原子力に関する学びは不十分ではあったかもしれないが、電気の原理の学びに関する教材と教授法は充実したものであった。
農業を例に挙げてみたい。2005年に食育基本法が制定され、その効果は着実に表れてきている(注)。食育を通して、野菜の生産地や作り方に興味が向くようになり、いまではどのスーパーでも「○○産、有機栽培」というポップが張られ、ときには生産者の顔写真まで張られている。小中学校での農業体験を通して作物を作る大変さを実感することで、食べる時に有難さを想像することができる。農薬に対する関心が高まり、生産者と民衆のあいだには適度な緊張感と対話が生まれている。いっぽう、食と同じく口から入るものにも関わらず、薬の原料や産地を考慮することはない。製薬企業と民衆が対話を試みても、そこにはベースとなる共有知識が育っていない。
明治維新以降、極端なまでの進歩主義によって得られた数多くの新薬に感謝しつつ、いま、その歩みを緩めて、薬を「知る」ことに時間をかけてもいいのではないだろうか。医療関係者だけでなく、一般民衆も薬の本質を学び、薬との信頼を育むことに時間をかけてもいいのではないだろうか。そのためには薬の教育が必要になってくる。そのお手本として筆者が学んだチベット医学を紹介したい。チベット医学は薬との信頼(チベット語でイチェ)を育むシステムが極めて優れているからだ……と唾を飛ばしながら「である」調で熱く語ってしまった。
次回からは、また「ふんわり」とエッセー調で語っていきます。2016年もよろしくおねがいします。
注1
食育基本法。子どもたちが健康な心と身体を培い、未来や国際社会に向かって羽ばたくことができるようにするとともに、すべての国民が心身の健康を確保し、生涯にわたって生き生きと暮らすことができるようにすることが大切である。こうした理念に基づき食育基本法が制定された。
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